さようなら、ザジ 9








3歳、4歳とザジはゾロと共にウエストブルーで過ごした。
ここは気候が穏やかで過ごしやすい海だ。
だが、グランドラインまでとはいかなくとも、腕に覚えがある者達の戦闘レベルはかなり高い。
世界でもっとも脆弱な海。以前の話だが、イーストブルーをそう指摘されたのをゾロは覚えている。
簡単に認めたくはないが、あの海より剛の者が揃っているのは確かだ。平均して戦闘力が高い。そして多勢だ。一斉に襲い掛かってくるのはいつものことだが、その数が半端じゃない。まともに相手しては体力を消耗するばかりで、しかも自分はハンディのようにザジを抱えている。
この海でゾロは『かわす』『いなす』ことを覚えた。
逃げるでなく、避けるでもなく、力に対して力で返さずに無駄な力を抜くことを学んだ。
ザジは口が達者になった。
遅ればせながら3歳を過ぎたあたりから、堰を切ったように言葉が溢れ出た。
口癖は、「あれ、なに?」、「これ、なに?」、「それ、なに?」。
海で過ごすことが多かったザジは、陸にあがれば珍しいものがいっぱいで目移りするのはわかる。犬猫などの動物を見る機会が少なかったから、興味があるのはとてもよくわかる。わかるが子供はしつこい。
「あれ、なに?」
「黒い猫だ」
「あれは?」
「茶色の猫」
「じゃ、あれは?」
「あれも猫だ。白くても猫。お前な、色じゃなくて形で覚えろ」
ザジは個体を色で識別しようとする。
だが同じ質問を2回以上しなかったから、もともとの頭の出来はそう悪くないのかもしれないが、その回数は多かった。
飯を食っては「これ、なに?」といちいち材料を聞く。ゾロが教えてやれるのは限られている。それ以外は、すべて「肉」と「野菜」だ。答えは間違っていない。
あまりに色々なことを訊くから、それを覚えているのかと、
「おい。これは何だ?さっき教えただろ」
問いかけても正解率は多目にみても1割5分だ。ようするに、ただ訊きたいだけらしい。

ザジはいろいろなものを目で追う。
飛ぶ鳥、泳ぐ魚、流れる雲、動物、植物、だがその中でも一番気にかけているのはゾロだ。
かなり幼い頃に街で迷子になり、そして一時的とはいえバラティエに置いていかれたことがトラウマになっているのか、何かに気をとられていても必ずゾロの姿を捜す。
その姿を確認して、また他のことに夢中になってそしてまたゾロを見る。
まるで仔犬のようだと思いながら、これなら迷子の心配はないし捜す手間も省けるとゾロは意外とその状況を気に入っている。
「ザジ」
声をかけるとすぐに振り向く。
こっちに来いと呼べば素直にくる。

あのコックだとこうはいかなかった。
「おい」
声をかけると、
「んだよ」
いかにも面倒そうな、迷惑そうな、とても嫌そうな顔を自分に向ける。
来い、と呼んでも、
「用があるならてめぇが来ればいい。その足は何のためについてる?迷子になって人の10倍歩く為か?」
勤勉なその足で俺のところに来いと、あの男には素直なところが欠片もなかった。
それに比べれば、ザジは可愛いとゾロは思う。
同じぐるぐるでも、笑った顔としかめっ面ではこうも違うのかと、その笑顔をうっかりと可愛いと思ってしまうくらいだ。
何よりも、「ゾロ」「ゾロ」「ゾロ」と、何の躊躇いもなくザジはその名前を口にする。

「ゾロ」
「何だ?」
用もないのに名前を呼ばれるときが多い。
「ゾロ」
「だから何だ?」
どういう意味があるのか、ただ名前を呼んで、やたらに顔やら頭を触りたがる。うっとおしくもあり、返事すら面倒なときも多いが、それでもその体はか細く小さく、何故か切ない。

「ゾロ」
また呼ばれて、
「だっこ」
差し出された両腕を掴んで、
「お前な、もうばぶばぶの赤ん坊じゃねえんだから、ちっとは自分でどうにかしようって気にはなんねえのか?」
いつまでも手間がかかるといいながら、ひょいと掴んで自分の肩に乗せれば、
「落ちねえように、てめぇで気をつけろ。痛い思いをするのは自分だからな」
ザジはその頭部を、緑色の短い髪をぎゅっと掴んだ。一度、その肩から落ちて大泣きしたことがあり、それからというもの小さい手足で必死にゾロにしがみついている。その姿は少し猿に近い。


最近、ゾロは闘うときはなるべくザジを遠ざけている。
気遣いながら戦うのは面倒だし、もう理解できる年だろうからと、「隠れてろ。俺が呼ぶまで出てくるな」、よく言い聞かせ、だからザジはいつも物陰に隠れたままだ。戦いが終わって、声をかけるまで決して出てこない。


ザジの幼少期はゾロと共にあった。
片隅で身を潜めながらその戦う姿を見て、寝食を共にし、名前を呼んでその肩に背に乗って過ごした。





ゾロがノースブルーへ辿り着いたのはザジが5歳になったばかりの時だ。
もう話せるようになったし、ケツも自分でちゃんと拭ける。前ほどびいびい泣くこともない。これならメリー号へ連れていってもどうにかなるだろうと、ゾロはまたグランドラインへ戻ろうとしたら、辿り着いた場所はノースブルーだった。
日を追うごとに、年を重ねるたびにゾロの迷子はグローバルになってゆく。
ノースブルー。
北の海はいつもうっすらと灰色の雲が空をおおい、空気はひんやりと冷たい。
時折、空から粉雪が舞い降り、風に飛ばされて散ってゆく。晴れの日は少なく、草木がくすんで見えるのは慢性的な日光不足のせいだろうか。

北方の国々の治安はよいとはいえなかった。
生々しい戦闘や略奪の後の村。行く先々で見たものからすると、人々の暮らしもけっして恵まれてはいないようだ。
おそらく慢性的な食糧難と日常的に略奪、強奪、争いが絶えないのだろう。人々がひっそりと生活を営んでいる様子が、立ち寄った先のあちこちでみられた。



ノースブルーを回って、ある小さな村に立ち寄ったときのことだ。
「サンジ!」
どこからか、その名前が呼ばれゾロは振り返った。
そう発したのは大きな体と髭をもつ人物だ。
「お前は朝からどこをほっつき歩いてる?母さんが呼んでるぞ」
すると、近くにいた子供が、
「だってさ、家にいるとすぐに用事をいいつけようとすんじゃねえかよ。俺だってもっと遊びたいのに、いつも俺ばっか……」
「馬鹿が、ガキが家の手伝いをするのは当たり前だ」
その父親らしき人物に、耳を引っ張って連れていかれるところをザジも見ていた。
サンジ。そう呼ばれた名前に振り向いたのは、ゾロとその子供だけじゃない。ザジも振り向いた。
サンジという本来の自分の名前を思い出したのか、それともただ単に背後からの呼びかけに反応しただけか、ゾロには判らなかったがそれを確認することはできない。

その名前はもしかすると、ノースブルーではそう珍しくないのかもしれない。ゾロは数度、それを耳にした。そして金髪で色素の薄い人間が多いのも、この海の特徴だ。金髪はあまり珍しくない。だが、ぐるぐる眉の人間は見かけなかった。
これは人種的なものでなく、遺伝子による家系の問題かもしれないとゾロは考えている。ならば、もしも同じ眉をした金髪の人間がいたなら、それはコックの血縁者という可能性が高い。
メリー号のコックが、実はノースブルーの出身だと知ったのは空島へ向かう前だ。子供の頃に読んだ絵本がどうのこうのと言っていたのを思い出す。
寒い北の海に生まれ育ち、どういった理由でイーストブルーへ行き、どういう人生を歩んできたのかゾロは知らない。
船の遭難と、赫足のゼフとの一件は本人からでなく、ゾロはウソップから聞いて知ったことだ。ルフィは知っていても、意外とそういうことは自分から口にしない。
ウソップはコック本人から聞いたようだ。
だが、あのウソップだからサンジもそれを話したようなもんで、ゾロは自分だったら聞いても絶対に言わなかったのではないかと思っている。
ヤることだけはヤっていても、コックは肝心なことは何も言わないし、ほとんどといってもいいくらい、口にするのは余計なことと憎まれ口だけだ。
なのに、性欲を『愛』と定義した。そして、お前に愛されてやってもいいとか抜かした時には喧嘩になったのを覚えているが、そんなことすらもゾロにとって今では遠い昔の記憶である。



ノースブルーの冬は暗く長く、この海に来てからもう1年以上になるが、ここの寒さにはまだ馴染めない。
10月が過ぎると、早くも氷のような冷たい風が吹きはじめた。
ゾロはザジを連れて船を降り、街にいって一冬を過ごすための部屋を借りた。去年の冬に酷い目にあったからだ。
ちゃんとした暖房設備のついていない小さな船は底冷えするくらい寒く、ゾロは平気だったがザジは一冬の間、ずっと鼻水を垂らしていた。
熱こそ出さなかったがパッキンが緩んだかのように鼻水を垂れ流し、おかげで枕や毛布はがびがびになり、服の袖も汚れ、ティッシュがなくなると溢れ出る鼻水をゾロの服や身体に擦り付けたりもした。余程、気持ち悪かったとみえる。
鼻が塞がっているからいつも口を開けて、くしゃみをすれば鼻水と唾液が飛沫となって一面に飛び散り、当然ゾロにもそれは降りかかる。

借りたのは小さなキッチンだけついた、ワンルームの狭い部屋。あるのは小さなクローゼットとベッドだけだ。
風呂もトイレも別である。その分だけ家賃は安く、狭くとも二人で過ごすには十分だ。

暗くて寒く長い冬の、ほとんどをふたりはその部屋で過ごした。
その冬、ゾロはザジに絵本を買い与えた。前から少しずつ簡単な読み書きを教えていたからだ。
室内での鍛錬を終え、うとうと居眠りするゾロの傍らで、ザジはたどたどしい声でそれを読む。

「『…にん…ぎよ…ひめは、おうじ…さ…まがすきに…なり…ました。そ…して、にん……にんげんになろう…と、まじ…よ…のところへ……』、なあ、ゾロ。あのさ、『にんぎょ』っていると思う?」
「……人魚?いるんじゃねえのか?」
「やっぱいるのか!何処にいるんだろ。きっとどこかキレイな海にすんでんだよな」
ザジが絵本を見ながら呟いた。
「俺の知ってるヤツにな、『人魚島!それは男の夢だ、ロマンだ、パラダイスだ!下半身が魚でも俺は許す!上半身がおキレイなレディならどうにかなるってモンだ!カモン、マーメイド!カモオオオオオン!』ってな、眼からヘンなもんを撒き散らして踊り狂ってた男がいたぞ」
「何、それ。ヘンなヤツ。もしかすると馬鹿?」
「確かに馬鹿だ。かなり阿呆だった。病気といってもいい。いいか、お前はそんなの見習うんじゃねえからな」
「俺?そんなの真似しねえよ。だけどさ、きっと人魚って可愛いよな」
「かもな」
「やさしくてさ、いい匂いがするんだ、きっと」
「そうか?」
意外と生臭いのではないかと思う。少なくとも下半身は魚だ。
「でな、みんな髪が長くて、その髪がキラキラしてて…」
「………」
「……俺、王子さまになれねえかな…」
そう呟きながら、ザジは絵本の挿絵を穴が開くほど、話の続きを読むのも忘れて食い入るように人魚姫ばかり見た。



ゾロは午前中だけ船に戻って鍛錬をする。その間、ザジは部屋でひとり留守番だ。最初は一緒についてきたが、途中から別行動ができるようになったお陰で、ゾロは少し自分の時間が持てるようになった。
朝だけ一緒に出て、市場によって買い物をする。その材料を持ってザジはひとり部屋に戻り、ままごとのような料理をつくる。
そのスープもどきは、生煮えの野菜とくたくたに煮えすぎたものが混在していて、味もかなり微妙だ。
6歳の子供が作ったものにしては、上出来なのか不出来なのかゾロには判断がつかないが、お世辞にも旨いとはいえない。
本人も自覚はあるらしく、
「前に店で食ったよな?同じようなものを使ったんだけど、何が悪いんだろ?なァ、ゾロ。不味いか?不味けりゃ残してもいいぞ」
「いや、大丈夫だ」
食える材料で作ったのなら食えないはずはなく、多少不味くとも腹を壊すことなどあるまい。もちろんザジの腹だ。ゾロの腹はあの船長とまではいかなくとも、人の三倍くらいは丈夫である。
だが、ザジの料理を食べると不思議な感じがするのは何故だろう。
ふぞろいの形をした根菜が、不味いスープなのに、それはぽかぽかと腹にやさしく暖かい。



その冬、ゾロはザジに簡単な計算を教えた。
「ボケ。何で2と3を足すと8になる。てめぇのポケットに飴を2つ入れて、後から3つ入れたら合わせていくつになるんだ?8になるか?そんな不思議なポケットはこの世にねえ。指を使ってもいいからもう一度やってみろ」
「あるよ。氷の国で手に入れた袋は、何でも二つに増える魔法の袋だった」
「氷の国?絵本の話か?」
「ゾロが教えてくれたんだろ」
ザジはゾロが教えたと言い張るが、そんな記憶はない。
たまにではあるが、記憶が混じっているのではないかと思うときがある。だがザジに混乱や不都合はなさそうなのでそのままだ。



外は連日の吹雪だ。
冷たい隙間風が抜けるボロい部屋だが、それでもそこは暖かい。ここら辺では、風呂は常備されてなくとも寒冷地ゆえ暖炉だけはついている。薪がパチパチと爆ぜて、窓枠に積もった雪と、その硝子を水滴が白く覆う。
ザジは吹雪の間、毎日読み書きの勉強をしている。
まだ甲高い声で、つっかえながら朗読される話を聞いていると、ゾロはうとうとと眠たくなってしまう。

「『…なん…で、そんなに、おくちがおお…きい…の?すると、おばあさんが、いいました。おまえの…おまえの…おまえを…くち…くちまうた…めさ。』。なァ、ゾロ。女の子はおいしいのか?」
「……ん?食ったことがねえから知らねえ。俺はたとえ女でもガキは食わん」
「…ふうん。『そ…うい…うと、おおか…みは、が…ぶりと…』、この子、可哀想だよな…?」
「……いちいち面倒だな、てめぇは。そいつはふらふら寄道ばっかしてっからそういうことになんだ。だけど意外とそういう趣味の奴は多いらしいぞ」
「趣味って何だ?」
「異様に子供好きってことだ」
「そっか。あのな、市場のおっちゃんもそうらしいぞ。おっちゃんの膝の上に乗って、10分我慢したら魚をタダにしてやるってさ。乗れ乗れって、いつもうるさくて仕方ねえ」
「あ?」
「もう10分我慢したらお金をくれるって。そんでな」
「おい、ちょっと待て!初耳だぞ、それ!お前、まさか何かされ…、いや、よもや膝に乗ったんじゃねえだろうな!」
「乗らねえよ。もうそんなガキじゃねえし。それにおっちゃんは口が臭せえ」
生意気をいうが、まだ充分に子供である。しかも子供は言葉が容赦ない。
「いいか、大人だからといって、みんな優しいとはかぎらねえ。絶対に油断するな。世の中ヘンなヤツがいっぱいいるからな。ボケッとしてると頭の天辺からガブガブ食われちまうぞ」
「…本の話みたいにか?」
ザジが小さく身をすくめた。
「そうだ。仕方ねえ、春になったらおめぇに技を仕込んでやる。もうすぐ7つだから覚えておかねえとな」
自分の身を守る術だ。いいか、ヘンなことをされそうになったら金玉を蹴り上げろ。めんたま刳りぬけ。鼻フックだ。口に手を突っ込んで奥歯ガタガタいわせてやれ。ゾロの言葉にザジは目を輝かせた。

むかしむかしで始まる物語。ザジが読む童話の結末を、何故かゾロは最後まで聞いたことがない。










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2007/6.05