さようなら、ザジ 10









翌年の春、ザジは7歳になり、ゾロは昨年ノースブルーにおいて26歳になった。
荒れた北の海には思わぬ強豪が揃っていた。戦闘も他とは少し違って独特の戦い方をする。
いうなれば頭脳戦だ。意表をついた方法で襲い掛かってくるのが特徴である。途中から平気で武器を変えるし、利き腕を誤魔化すなど小賢しいことはともかく、問題はトラップが多いことだ。
このトラップが厄介だった。爆薬、ナイフ、電気など様々な罠を、場所を移動しながら仕掛けてくる。
体術も急所を狙うものばかりだ。無駄な動きはなく、狙いは的確である。ゲームのように先を読み、動きを少なくして敵と戦うやり方をゾロは覚えた。それは面倒ではあるが意外と面白く、そしてこの海にゾロを足止めした理由のひとつである。

その年、初雪が降った日のことだ。
いつものようにザジを物陰に隠れているように指示し、ゾロは海賊と戦った。
懸賞金は500万ベリーだ。小物といってもよいだろう。
物足りないくらいにあっけなく敵を倒し、地面に横たわる体に近づくといきなり足元に激痛が走った。鋭い金属の刃がゾロの足首を挟む。敵は倒されたフリをしていたらしく、上着とズボンをトカゲの尻尾のように残して、ほぼ全裸に近い状態で足早に逃げ去った。
「……俺は熊か?くそったれが!死んだフリなんかしてんじゃねえ!」



その晩、ゾロは高熱を出した。
毒は弱者の武器である。弱いヤツほど道具を用いることが多く、しかも逃げ足だけは速い。
トラップに仕込まれた毒はゾロを寝込ませた。もしかすると、普通の人間ならば死んでいたかもしれない毒である。
それは天井が落ちてくるような錯覚であったり、または血がぼこぼこと沸きあがり、身体が大きく膨れあがってしまう感覚と、未だかつてない幻覚と高熱にゾロは意識を失った。手と指先はぴりぴりと痺れ、それは自分の身体であっても自分のものではない。
3日寝込んでゾロは目が覚めた。
手を握り、ひらいてまたぎゅっと握る。どうやら熱も下がって、平常の感覚が戻ってきた。

「……ゾロ。大丈夫か?」
声をかけられ、様子を覗き込むザジと目が合った。
「もう心配ねえ。おめぇはちゃんと飯を食ったか?」
その眼は少し赤く充血していた。子供なりに心配していたのかもしれない。
「自分で作って食べた。なァ、腹へってねえ?もう食える?」
「いつものヤツを食わせろ。大きさがバラバラの、あの不味いスープでいい」
ザジが急いで小さな台所へ向かった。


コトコトと、小さな音が聞こえる。
カチャカチャ食器の音とともに、いい匂いが部屋に立ち込める。空き箱を足台にして、時折爪先立ちをしながら、ひとりで料理をつくるザジの後姿がゾロの眼に入った。
その音が、匂いが、すべてが懐かしく感じてしまうのは何故だろう。
コトコトと鍋が煮える音。飯が出来上がるまでのつかの間を、ゾロはまた眼を閉じて待った。





その冬もふたりはノースブルーで過ごした。
ただ、そう長くこの海にもいられない。
ザジは来春にはもう8歳になるし、予定よりもだいぶ時間が経ってしまった。あの船を離れてもう7年になる。

今、船はどんな状況か。
どこにいるのか。
自分がいない間にどんな敵と戦ったのだろう。
仲間はみんな無事か。
もしかすると、自分たちの存在すら忘れられてしまった可能性はあるが、ならば思い出させればいい。どうしても思い出さないのなら、知らん顔でまた新しい仲間として加わればいいとゾロは考えている。


それともうひとつ。
この近辺の戦況が悪化した。少し離れた村では連日のように激しい銃撃戦があり、沢山の人々が死んだという。焼け野原と化した村もあるらしい。
ノースブルーの歴史は戦いとともにある。
圧政から逃れようといくつもの組織が結成され、そして自由と独立を願い、今までに幾多もの大きな戦いが繰り広げられてきた。それは海軍が関与する問題でなく、その為かこの海における海軍の影響力は弱い。
今、街では慢性的な物資不足だ。
食料はもちろん、日常用品まで高値でしかも手に入りにくい。寒い冬なのに、どこの家でも暖炉を節約しながら過ごしている有様である。
遅くとも来春にはこの海を出よう、あの船にザジを連れて帰ろうとゾロは考えていた。



その冬、ザジは去年よりも読み書きが上手くなった。あれだけつっかえていた童話の音読もかなりマシだ。もっとも、同じ本ばかり何回も読んでいたら、上手くならないほうがおかしいかもしれない。
「俺さ、王子さまになったら人魚姫にやさしくしてやろうと思うんだ。キレイな声が出なくたって、女の子は大事に大切にしてあげなきゃ。そうだよな、ゾロ。なァ、どう思う?」
どう思うといわれても、やはりコックはどんな環境で育とうと、いくら幼くともやはりあのコックなのだとゾロは思うだけである。
そしてその冬は自分の国で使われている文字をザジに教えた。簡単な『ひらがな』と『カタカナ』だけであるが、共通言語と違って知っている人間は少ないから、もしかすると暗号として役立つかもしれないと考えたからだ。
「『ね』と『わ』は似てるけど違うから気をつけろ。『さ』と『ち』も向きが違うだけで別だからな。『さんぽする』、間違ったら『ちんぽする』になっちまうぞ」
ゲラゲラとザジが笑う。子供は意外と駄洒落と下ネタが好きだ。



ある日のことである。
その日は朝から細かい雪が降っていた。
ぱらぱらと白いものが舞い落ち、それを冷たい風が飛ばす。息も凍るような寒い日だった。
朝、眼が覚めると口から吐き出される息が煙のように真っ白だ。
ゾロは暖炉に火をつけるため、寄り添うように寝ているザジを起こさないようにベッドを出ようとした。
去年は一日中つけっぱなしの暖炉だった。
だが燃料不足のため、今は暖炉に火をともせる時間は限られている。とても一晩中つけていられる状態ではなかった。
寝ていても寒いのか、ザジは夜もぴったりとゾロにしがみついて離れない。
いつもこの時期は朝まで湯たんぽのようにくっついたままで、今朝は寒いからなおさらだ。これではベッドから出るに出られないではないか。
ザジはまだ起きる気配がない。手足をゾロに絡ませたまま寝ている。
こうしてみると、ずいぶん大きくなったとしみじみ思う。
いつも見ているせいか、動いているザジをみてもそうは思わないが、寝ている姿をみると本当に大きくなったと感じる。
最近ではいっぱしに生意気な口も利くようになった。腹が立つことも、たまにあるどころかよくあることだ。
だが、ここまで無事に成長して良かったと思う。自分の役目はもうそろそろ終わりつつある。


ここ数日、他所から避難してきた人々、そしておそらくここから他所へ向かうのであろう人々の姿が増えてきた。
少しでも安全な場所を求めて、民衆が移動を始めたらしい。
大きな荷物を抱えた者や、着の身着のままで飛び出したのか粗末な身なりの者、家族連れもいればそれはまちまちだ。幼い子供がうな垂れ、または泣きながらひとりで歩いている姿もちらほら見える。移動中に両親とはぐれてしまったか、それとも戦災孤児かはわからないが、身寄りのない子供達が生きながらえる確率はどのくらいだろうと、ふとゾロは考えてしまった。


その日の晩のことだ。
遠くから低い爆音が聞こえた。
窓から外を見ると、黒い建物の向こうがまるで夕陽が落ちたように赤く染まっていた。真っ暗な夜空に赤々としたひかりが、煙とともに不吉に輝く。
どうやら市街地まで戦火は拡大しているらしい。
爆撃地はそう近いとはいえないが、いつここまでくるか状況はあきらかでない。
それを見ながらゾロは酒を口に含んだ。移動は間近に迫ってからでも平気だろうと考えているからだ。ここまで攻撃されるかどうかはわからないし、されても逃げ切れるだけの自信はある。政治や戦争に関わるつもりはないが、あまりにうっとおしいならばその武器を叩き斬ればよいのだ。それよりも、ガラスが薄いせいか窓際は寒くて仕方ない。

「まだ遠いから大丈夫だ」
隣で外を見ているザジに声をかけたが返事がなかった。
「おい、寒くねえのか?」
寒がりのくせにと、何もいわずに暗い窓の外ばかり見ているザジにまたゾロは声をかけた。
その時、大きな爆撃音がガラス窓を震わせ、夜空が赤く輝いた。

冷たいガラス窓の淵に両手をおき、ザジはそれをずっと黙ったまま見ている。
ゾロは酒を片手にまた窓辺へ向った。そして、その隣に立つと、微かな呟きが聞こえた。

「……街が、家が燃えちゃうよ……」
ザジは爪先立ちながら、窓から外を見ている。
その顔は蒼白だ。紙のように白く、血の気がまるでない。眼は大きく見開かれ、その青い眼に炎が揺れる。
「……死んじゃった……みんな死んじゃうんだ」

ザジがそれを怖がるわけはない。
赤ん坊の頃から自分のを含め、戦闘場面などイヤというほど見てきたはずだ。周りを炎で囲まれたこともあるし、どんな轟音でも、水でも煙でも、たとえ火山の噴火でも泣いたり怖がったりしたことはない。

また激しい爆音と共に夜空が白く輝き、そして大きな火柱が上がった。

「近づいてきたか」
ゾロの声に、ザジの身体が驚いたようにビクリと動いた。

「……逃げなくちゃ。遠くに。…ずっとずっと遠くに」
ゾロ、遠くに行こう。ゾロ、船に乗って遠くに行こう。
涙ながらに、必死でゾロにせがむ。
ザジが泣く顔を見たのは久しぶりだ。もっと幼い頃はいつもビービー泣いてばかりいたが、ここ最近は涙のひとつも零したことがない。
そのザジがあふれる涙を拭おうともせずに泣く。
泣き声をあげず、ただぼろぼろと頬をつたう涙は、押さえきれない不安か、それとも願いか。


「もっと、あったけえ海にするか?ここは寒くてしょうがねえ」
ゾロの言葉に、ザジは感謝のつもりか笑おうとしたらしい。だけど上手く笑えなくて、泣き笑いよりも、それは表現しようもないくらいヘンな顔になった。


漆黒の空からぱらぱらと白い雪が降り注ぐ。それは霰のように硬くて小さい。
冷たい風にたくさんの燃えかすが雪と混じって夜を舞い、焼け焦げた臭いと硝煙、そして人々が逃げ惑う姿が炎に映し出された。


あの日、あのときザジが流した涙。
それはルフィも、ウソップも、おそらくは誰も知らないであろうコックの、遠い昔の記憶かもしれないとゾロは思う。










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2007/6.9