さようなら、ザジ 8









また山を下り野を歩き、小さな山をひとつ越えると、そこには見覚えのある景色が広がっていた。
黒や灰色の瓦屋根。手入れの行き届いた松の木。子供の頃、ぶら下がって賽銭箱の鐘を壊した神社。柿をとるためによじ登った石塀。
いずれもゾロの記憶にあるものばかりだ。
生まれ育った家もそのままである。
古い門をくぐり、ザジを連れて中へ入ろうとしたら人から呼び止められた。

「あんた。ちょっと、あんた。もしかするとロロノアさんちのゾロかい?」
振り返ればこれまた見覚えのある顔だ。
近所に住まう老婦人である。小さい頃、盆栽を倒したと親にチクられ、そこの飼い犬に悪戯したといってはまた怒られ、何だかんだと怒られてばかりだったのを思い出す。
言い訳ではないが、犬の件に関してゾロは半分しか悪くない。犬にあるまじき立派な眉を書いたのは自分だが、その頭部をバリカンで刈り上げ、体の横にザビエルと書いたのは別の友人だ。
確かに悪いことばかりしていたが、それでも中には冤罪はある。だから何でも俺の所為にしやがってという思いもある。
だけど、そんな思い出ばかりではない。
例えば、くいなに負けて悔し泣きしながら帰る途中に呼び止められ、「ちょっと待ってな」と言われ、おとなしく待っていたゾロの掌に、
「炊きたてだけどね」
塩しかついていない熱々のおにぎりくれた。それが何故かとても旨く感じたりとか。

久々に見るその老婦人は何故か小さくなっていた。縮んだのか、それとも自分が大きくなっただけか。おそらく後者だろうと思っていると、
「まあまあまあ、こんなに大きくなって。おばさんも年取るわけだねぇ」
感慨深げにゾロを見た。
「あんた、えらく有名人になったそうじゃないか?」
「有名人っていうのとは違うだろ?」
「あちこちに写真入のポスターが貼ってあるって噂だよ。立派になっちゃって、まあ」
こんなのどかな村にも手配写真は流布しているらしいが、婦人のニュアンスではまるでアイドルのようだ。おまけに「人相は悪いが男前になった」と、変な褒められ方をした。
「今日は里帰りかい?」
「まあ、そんなもんだ」
「だけどロロノアさんとこはご夫婦で湯治に行くって、つい先日出かけたばかりだよ」
「湯治?どこか悪いのか?」
「それがね、ご主人がぎっくり腰だそうだ。しばらく留守にするからって家の鍵を預かってるけど、おそらく1〜2週間はむこうに行ってるんじゃないかねぇ」
1〜2週間くらいなら家で両親の帰りを待てばいい。久々の故郷である。少しゆっくりしようとゾロは思う。
夢中で話をする婦人は、ふとゾロの足元に隠れていたザジに気づいた。大きく眼を見開き、
「…あれ?あれあれあれあれ。なんと可愛いこと、まあ!」
かなり驚いた表情だ。
「いったい、どうし……。いやいや、無理に言わなくていいんだよ。うんうん。人にはそれぞれ事情ってもんがあるからね。立ち入ったことを聞くつもりはないよ。それにしても可愛いねぇ」
金髪が、青い眼が、まるで舶来のお人形のように可愛い。白い頬が陶磁器のようだ。だけど変わった眉をしていると、ザジの両手をふにふにと握って婦人はにこやかに笑った。

家の鍵を預かり、ゾロは中へと入った。
白い玉砂利の敷かれた庭を歩く。ザジはじゃりじゃりと音を立てる小石を拾い、投げてはまた拾い、楽しそうにそれを繰り返している。
久しぶりの我が家は、自分が出て行ったときから何も変わらないように見える。まるで時間が止まったかのように。
畳の匂いと、障子から差すやわらかい光。柱の傷と黒ずんだ天井。それほど広くはないが、昔から手入れの行き届いた家だった。
厳格な父と、怒ると父以上に怖い母と、そして祖父と共に過ごした家である。
祖父はもう鬼籍の人となっているが、これまた厳格な人物であり、そして少しばかり風変わりな人間でもあった。

あれ、松虫が鳴いている。ちんちろちんちろちんちろりん。

「アレマツ虫は食うと旨い」
そう自分に教えたのは祖父だ。しかも真顔で言う。
古風な土地柄なのに風習や偏見にはとらわれず、そして実は金髪女性が好きだったらしい。
いかがわしい、子供の目にはそう見える雑誌をこれまた仏頂面で、難しい本を読むような表情で、
「お前は将来こんな嫁さんをもらうといい。それが男の甲斐性というものだろう」
幼い孫にグラマラスな金髪女を勧めたのも祖父だった。

そんな祖父であったが、意外や剣の達人であったのを知ったのは死後だ。ならば、何で自分に教えてくれなかったのかという疑問はあったが、偏屈な爺さんらしいとも思う。
『剣の道は己の道。人に頼らず自ら精進するものだ』
祖父ならきっとこう言う。
おそらくザジを見たら、
「む。女でないのが実に残念である」
苦味潰した顔で、でも可愛がってくれたに違いない。

その晩、何年ぶりかで寝た自分の布団は心地よかった。
明日、道場を訪ねてみようとゾロは考えている。まずは先生に会って自分の剣に迷いがないか確認したいし、腕がどこまで上がっているのかも知りたい。勝ち負けの問題でなく、それは今の自分自身を知ることだ。
白い障子の隙間から、月光が隣で眠るザジの髪を照らす。
きらきらと輝くそれは、まるで黄色い月がそこにあるようだと、ぼんやり思いながらゾロは眠りについた。




翌朝、ザジを連れてゾロは道場へ向かった。
その道すがら、何故かすれ違う人々から物珍しげな視線を浴びた。おそらく手配写真の所為だと思われるが、近所のおじさんに、
「いろいろと事情はあるんだろう。まあ、気を落とさずに頑張りなさい」
と、ヘンな励ましをもらったのが若干気になる。
道場へ着く直前に、ゾロは路上で懐かしい友人に出会った。
幼い頃から、くいな達と一緒に剣の練習に励んだ仲間だ。

「久しぶりだな、ゾロ!おい、元気だったか!」
会話を交わせば、それは道場でずっと苦楽を共にした仲間だ。今の仲間とは立場が違うが、一気に懐かしさが込み上げる。
「海賊狩りをやってるんだって?」
「いや。今は海賊船に乗る海賊だ」
「海賊狩りから海賊かよ?」
友人が笑えばゾロも笑う。
「すげえ賞金額じゃねえか。あれか?ここでお前を倒せば俺は一気に大金持ちってわけだな?」
「違いねえ。どうだ、試してみるか?」
「いや、やめておこう。昔からおめぇにゃいつも勝ちを譲ったし、今日は朝から腹具合が悪ぃ」
ゾロが笑えば友も笑う。
そして何故か神妙な面持ちになった。
「…だけど、おめぇも大変だよな。俺じゃ力にはなれねえかもしれねえが、出来ることがあったら遠慮なくいってくれ」
その申し出は嬉しいが、
「世の中、そんな質の悪い女ばっかりじゃねえから、あんま悲観するなよな。何なら俺が気立てのいい女を紹介してやろうか?」
話がいきなり変な方向へとかわった。

「別に女はいらねえが、なんで俺が、何を悲観しなきゃなんねえ?」
「その子なんだろ?」
友人はザジを見て、そのザジは道端で見つけたおじぎ草を突いてひとりで遊んでいる。触るたびにパタパタ閉じるおじぎ草の葉が楽しくて仕方ないらしい。
「…こんなに小せえのにさ、ひでえ女もいるもんだぜ…。可哀想になあ…」
「ちょっと待て。お前、誰から何を聞いた?」


ロロノア・ゾロは海賊狩りだ。
そこそこ腕は立つが、実は女に滅法弱い。特に金髪女がお好みだ。そして若くして子をもうけたが、その女はあろうことまいかゾロと子供を捨てて逃げてしまった。どうやら相当気が強い女らしい。


「…いつからそんな噂が?つうか、なんでそんな噂が?」
ゾロは唖然とした。
「俺は今日の朝聞いたが。何だ、デマか?」
デマとかいうレベルではない。当たっているところがひとつもないではないか。しかも、そこそこ腕が立つとは失礼千万な話である。驚いた表情のゾロに対し、その友人の表情は『気の毒そうな』といってもよいかもしれない。
「…だけど、村中の噂になってると思うぞ」
「…先生の耳にも入ったと思うか?」
「…おそらく」

…くそう。
ゾロはぎりぎりと歯軋りをしながら、ザジを連れて来た道を引き返した。
そんなヘンな噂が広がっていては居心地が悪くてかなわない。違う、誤解だと、説明して回るのも面倒だ。とりあえず、2週間ばかり別の場所で過ごし、親が帰ってくる頃また戻ればいいとゾロは判断した。つまらない噂もそのころには消えるだろう。



その後、ゾロは道を引き返したつもりだったが別の場所に辿り着き、そこで山賊と戦い、海へ出れば海賊と戦って船を奪い、次に海軍と一戦を交えた後、今度はザジがおたふく風邪にかかった。
腫れあがった頬を布で縛り、痛い痛いと泣くザジを背負ってゾロはまた故郷を目指した。そこまでの所要時間はおよそ1月半である。
家の前までくると、再びあの老婦人に出会った。



「あんた、今まで何処にいってたんだい?なんてまあ、こうもすれ違っちまうなんて…」
婦人の話によれば、その1週間後に戻ってきた両親はゾロの帰りを待っていたが、また家を留守にすることになってしまった。どうやらまた入れ違いになったようだ。
「今度は何処にいった?」
「それが、『夢の楽園、サウスブルーへ行こう!若かりし頃の、あの情熱が今よみがえる!心フルフルと、魅惑のフルムーンパック』ってのに当選して、つい先日旅立ったばかりなんだよ。孫に会えるのを楽しみにしてたのに…」
よくもまあ、そんなベタで長い題名を覚えているものだ。
実のところ、あの噂を広めたのはこの婆さんでないかとゾロは少し疑っている。ここはのどかな村だ。この老婦人にしても、決して悪気は無いんだろう。だが目新しい話題も少ないから、おそらく想像に尾ひれがつきまくってああなったのではないかと思っている。そこへ少しばかり今は亡き爺さんの趣味と、ザジが加算されたのではないかと。
しかし、サウスブルーまで旅行に行ったのではそう短期間ではあるまい。移動にも時間はかかる。どうしたものかと考えるゾロに、
「そうそう。あんたに手紙を預かってるんだ。もしも留守の間に帰ってきたら渡して欲しいっていわれてね」
婦人は手紙を渡した。開くと、それは父からの手紙であった。



お前も元気そうでなによりだ。
海賊狩りを生業としているとのこと。すでに成人しているお前にとやかくいうつもりはない。立派にとはいわないが、自分に恥じない人生を送るがよい。
それよりも孫についてだ。
どんな女子と契りを結ぼうが、それもまたお前の人生。私たちが口を挟むものでないのは承知している。
青い眼をした毛唐の孫はいらんなどと、頭の固いことを言うつもりもない。
だが女子にもてあそばれ、誘われるがままに簡単に子を成し、挙句逃げられておめおめと故郷に舞い戻ってくるとは何事か。しかもお前に男としての甲斐性がなかったから逃げられたというではないか。
お前はそれを恥とは思わんのか。
いくら乳が大きかろうが、どんなに尻がでかかろうが、たとえ金髪でも相手を選ぶときは見た目よりも心で選ぶものだ。かなり生意気で気が強い女であったと聞くが…。

(省略)

あの爺さんもたいそう金髪好きであったのはお前も覚えてると思うが、よもやお前までこんなことになろうとは夢にも思わなんだ。
こういうのを隔世遺伝というのであろうか。
確かにお前は爺さんによく似ているが、こんなところまで似なくともよいのにと母さんも嘆いておる。
お前は知っているかどうかわからないが、あれで爺さんはたいそう面食いであった。
だが、どのような女子の子供であろうと可愛い孫には違いない。こんなに早く孫の顔を見られるとは思ってもいなかったが、それについては母さん共々楽しみだ。
だが、お前は別だ。
男としての心得、たしなみ、避妊について教えるのも父の務めかもしれない。いずれもじっくりと…。

(省略)

お前は昔からふらふら出歩いてばかりいる。こうして子供ができたのなら、少しは腰を落ち着けたらどうだろう。昔から真っ直ぐ家に帰ってきたためしがないと、いつも母さんから聞かされていたが。
道場へ行った帰りも…寺子屋の帰りも…遊びにいっても…

(以下略)



あの時はああだった。この時はこうだったと延々続き、だが孫に会いたい。お前には話があるから、自分達が帰るまで待っているようにと手紙は綴られていた。





「…………な…んだ…これ…?」
ゾロは呆然とした。腹が立つやら呆れ返るやらで、くらくらと眩暈がしそうだ。噂は消えるどころか、いくつか余計なものまで付け加えられていた。
ここまでくると訂正どころではない。根本から全て間違っている。
そしてゾロが内心一番傷ついたのは、
『お前は爺さんによく似ている』、であった。
眉間に皺寄せ、掌で握り潰された手紙に老婦人が驚き、
「あんた、大事な手紙を握りつぶしちゃ駄目じゃないか。親っていうのはね、いくつになっても何処にいても子供が心配なもんさね。あんたも親になったんだからわかるだろ?こんな小さな子を抱えて…」
そして長くなりそうな説教を、その言葉をゾロは遮った。

「親父とおふくろに伝えといてくれねえか」
「何をだね?」

「夫婦仲良く、達者で暮らせ、ってな。頼む」





「走るぞ、ザジ!」

そう大きく声をかけるとザジは驚いたように眼を見開き、そして嬉しそうに笑った。
幼くとも足腰が丈夫なザジは地を蹴り、まるで空を飛ぶように走る。
いくぶん速度を調整し、加減して走りながら、ゾロは隣を走るザジに話しかけた。

「おい、予定変更だ」

ザジが不思議そうにゾロを見る。

「俺がおめぇをでかくしてやる」

遅れまいと必死で走り、

「覚悟しとけよ」

そして、ゾロがニヤリと笑った。

「んでな、いつか一緒に皆んとこに帰んぞ!」

あっけにとられ立ち尽くす老婦人が、生まれ育った懐かしい村が、松が瓦屋根が景色がみるみる遠ざかってゆく。

「これも修行ってヤツか?人生、何があるかわかんねえな、おい」

あの爺さんに似ているというのなら、それならそれで仕方ない話である。生まれる順番は自分では選べない。
ゾロがゲラゲラ笑い、ゾロが笑えばザジも笑う。





故郷は遠きにありて思うもの。

その次の言葉をゾロは心で噛みしめた。



近くば寄って、目にものを見よ。








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※正確には『そして悲しく歌うもの』です。ここでは筒井先生のバージョンを引用させていただきました。


2007/6.1