さようなら、ザジ 7








ゾロはイーストブルーをぐるぐるまわる。
立ち寄った島で港で街で、そこに住む住民に何度も同じ質問をぶつけた。
「おい。シモツキ村って聞いたことあるか?」
故郷が見つからないまま、ふたりを乗せた船はゆっくりと時間が過ぎてゆく。海賊がいれば狩って資金稼ぎをして、釣りをして昼寝もすれば鍛錬も怠らない。港町に着けばザジを伴い、たまに娼館に行きたくなるのも男の性だろう。
娼館で金髪で青い眼のザジは女たちから可愛がられた。ザジも人見知りすることなく、かまわれてとても楽しそうな表情だ。その合間を見計らって別室でことを致すが、ゾロの姿が見えないことに気づいたザジに大泣きされることがある。
「ここにいる!もうすぐ行くから泣いてんじゃねえぞ、ザジ!」
声をかけるが、それでもいないことに不安を感じるのかますます大泣きした。そして最後に女がゾロから身体を離して笑う。
「いってあげればァ?泣いてて可哀想ォ」
可哀想なのは自分の方ではないか?
男として中途半端は非常につらい。そんなことが数度あれば、自然にそういった回数も減ってしまうのは仕方がない話である。
そうした時間の流れの中で、ザジはもうすぐ2歳を迎えようとしていた。










ある港へ着いたときのことだ。
例のごとく故郷の場所を通りがかった男に問うと、
「シモツキ村なら知ってる。俺の3番目の姉さんの嫁ぎ先の旦那の4番目の妹の嫁ぎ先の姑の実家がその村にあると聞いたことがある」
教えてくれたがその人間関係は理解できなかった。ようするに遠い親戚らしい、くらいは解る。
「ここからだと海を渡るよりも陸を通ったほうがいいだろう」
「そのほうが近いのか?」
「いいや。だが、この先の海には海軍がうようよいるぞ。こういってはなんだが、あんたの手配写真を見たことがある」
「それを知っていて、何で協力する?」
少し警戒を強めると、その男は笑いながらザジを見た。
「そんなチビを巻き込むわけにゃいかねえよな。なんか訳ありなんだろ?悪いことはいわないから、人の親切は受けておけ。俺が地図を書いてやろう」

ゾロはここで故郷までの地図を手に入れた。




街で食料を買いそろえ、内陸部へと足を進めた。
雪解けの林を抜け、川を渡る。
ザジは幼くとも足は丈夫らしい。しかも歩くことが嫌いじゃないようで、まるでハイキングのように楽しそうだ。
ただ、口が遅かった。
『ゾロ』といえるようにはなった。
だが他に意味が理解できる単語が少ない。
『ないない』。いらない、必要ない、嫌だ、気に入らない。
『まんま』。腹が減った。食べ物。そして物を要求するときにも使用される。
それと、『ピー』。主に甘いジュースなど液体をさす。砂糖水、これはザジの好物だ。だが美味しいものを食べたとき、または嬉しいときにも発せられる。
いずれもひとつの単語で意味は広範囲だ。
要求は簡潔で、あんなにも無駄口ばかり叩いてひねくれていたコックの語彙がたったこれだけかと思うと面白くもあるが、やはり反面不便である。


「おむつは外したからな。ションベンしたくなったらちゃんと『チー』って教えるんだぞ」
すると、「ないない」と逃げる。口が遅いだけで、言葉の意味は理解しているようだ。そして粗相をする。
途中の森でトナカイを見つけ、ザジが突然叫んだ。
「ピイイイイイイ!」
トナカイを美味しい食料として認識したのか、または単に珍しさのあまり嬉しくて発せられたのかはわからない。
鳥を指差しては「ピー」といい、何故か蛇を見ても「ピー」という。初めて百足を見たときは「ないないないない」とひどく嫌がった。
「まんま」というから食い物を与えれば「ないない」と不満そうな顔で首を振って「ピー」と答える。どうやら喉が渇いていたらしい。
どうせいつかはちゃんと喋れるようになる。多少不便ではあるが、憎まれ口を叩かれるよりはマシかもしれないとゾロは考えている。
だがたまに、本当にたまにではあるが、あの声を懐かしく思うときがある。

それは、たとえばメリー号における食事のとき、
「漫然と食ってねえで、ちゃんと食いモンに感謝しろ」
いちいち偉そうに説教たれる声。
または買出しで一緒に街を歩いていると、
「ウホホホホ〜〜〜!おい、見たか、今の!でっけええええ!おっぱい、でっけえええええ!」
阿呆丸出しのたわけた声が。
そして夜、耳をくすぐるしめやかな声。吐息といってもいいくらい微かなものだ。
だけど忘れる。全部忘れる。そしていつか、その存在すら忘れてしまうだろう。今はザジが傍にいるからこんなことを思い出すのだ。離れてしまえば、おそらく自分は簡単に忘れてしまうに違いない。
では、一度も呼ぶことのなかったあの名前はどうだろう。
まるで腹の奥底にしまわれているような感じだ。
そんなつまらないことを、たまにではあるがゾロは考えてしまうのであった。


冷える森の夜はザジを懐にいれて寝ると、まるで湯たんぽのようにぽかぽかと暖かい。
寝ているときは可愛い。こんなガキでも寝ている姿はとても可愛いと、黄色い頭を掌に包み込んでゾロも眠りについた。






船を降りて5日ほど経ったときのことだ。
森を抜けて小さな集落に立ち寄ったら、そこである噂を耳にした。
恐ろしく、とてつもなく強い男が近頃この付近に現れたと。

「どんな奴だ?何処にいる?」
ゾロが訊ねた。名のある海賊ならばさぞや賞金額もでかいだろう。金にならなくとも強ければ自分にとってマイナスにはなるまい。
教えてもらったのは小高い丘の上だ。
すっかりと雪が解けてしまった草むらは柔らかくて土の匂いがする。
踏みしめた地面からところどころ黄緑色の春が芽吹いているのが見えた。その丘の上で岩にもたれ、眼を瞑ったままの男がいた。
背に大きな十字の剣と、ツバの広い帽子。飄々とした様で春風に吹かれ、且つ独特のオーラを醸し出している。


「………奴か?」

思いもよらない再会だった。ゾロの背中を瞬時で駆け抜けた衝撃は殺気と化した。
枯草をざわざわと風が揺らし、男がゆっくりと眼を開く。重そうに開かれた瞼の中にはギラリと鋭い鷹の目が光っていた。





「お前も暇つぶしか?」
「そんなに暇なら、またお相手願おうか。だが、俺は前の俺とは違うぞ…」
ふん。剣士として世界の最も高みにいる男、ジュラキュール・ミホークが鼻を鳴らした。
「小童が、生意気に。だが前とは違うようだな」
「当たり前だ。あれからどんだけ俺が成長したか教えてやる。さあ、剣をとれ」
ゾロが頭を黒い布で覆った。放たれた気は風となり、つむじ風のように舞い上がって草木を強く震わせた。
「確かに以前とは違う」
「おい。格好つけてないで、早く剣を手にしたらどうだ」
戦闘体勢に入ったゾロに、ようやくミホークは腰を上げた。ぱんぱんと枯れ草を落とし、顎でゾロの背後をさした。
「随分と違ったもんだ。つかぬことを聞くが、ここで貴様が死んだらソレはどうする?」
「ソレ?ああ、ザジか。負けるつもりはねえから心配すんな」
「まさか俺に面倒を見ろというつもりか?」
「誰がてめぇになんか頼むか!」
「では、誰が面倒見るんだ」

「だから、負けねえっていってるだろうが!余計な心配すんじゃねえッ!!」
「こんな幼子を路頭に迷わせては旨い飯も不味くなる」
「このっ…」
空気までもが震えるような気を放ってゾロが吼える。
「俺はな、これでもいろいろと背負ってんだ。いくらアンタでもここで負けるわけにはいかねえ。覚悟してもらう」
魔獣と化したゾロに、またミホークはふんと鼻を鳴らして、

「漏れておるぞ」

ゾロの背後を見た。

「あ?何が漏れてるって?」
「後ろ」
「え?」
少し離れた場所でザジが服の裾をぎゅっと握り締め、泣きそうな顔をしていた。

「ああああああ、ザジ!てめぇ、なんでお漏らしなんかしてやがる!」
大声にビクッと身を震わせたザジの足元には小さな水溜りができていた。どうやらゾロの放った気に驚いて失禁しまったらしい。
「こんな大事なときに…。ションベンしたくなったら『チー』って俺に教えろっていったろ?なんだなんだ、靴の中までびしょびしょじゃねえか…」
ゾロはザジのパンツを脱がせ、荷物から乾いた布と服を取り出した。
「すまねえが、ちょっとだけ待っててくれ。すぐに済む」
濡れた股を拭いて、別に用意した湿った布でまたそこを拭く。
「コイツは意外と皮膚が弱くてな。ちゃんとしておかねえとすぐにかぶれちまう。前に面倒で放っておいたら猿のケツのように真っ赤になっちまった。そしたら擦れて痛いのかヒイヒイ泣きやがって煩くてしかたねえ。何でガキっちゃこんなに手がかかるんだ?ほら、ザジ。ちゃんと足を開いてろよ。拭けねえだろ」
そして荷物から着替えを取り出し、濡れた衣類をビニールに包んでまた仕舞う。そんな作業を見て、ミホークがゾロにいった。

「待っててやろう」
「悪ぃな。すぐに終わるから」
「待つからゆっくりやるといい」
「これを着せたらおしま…あ、しまった。天花粉をつけるの忘れちまった」
「いつまでも待ってるぞ」
「意外と優しいんだな、アンタって…おい?何処へ行く?」
ミホークが黒刀を背負い、そのままゾロに背を向けた。そして丘を下るように歩き出した。

「心配するな。ロロノア」
その姿が少しずつ遠ざかっていく。
10年でも20年でも、俺は世界の頂点で貴様を待つ」

「お、お、おいっ!そんな先じゃなくていい!3分、いや1分でかまわねえ!」
待て、と叫び、ゾロが立ち上がろうとしたら小さな声が聞こえた。

「…チー」
「え?『チー』?今したろ?つうか、言えるようになったんか?すげえな、おい。よしよし、でかした。いいか、ちょっと待ってろよ。すぐに戻ってくるからな」
急いでミホークを追おうとするゾロに、また『チー』といってザジは地面にむかって排便の格好をした。
「そっちもか?じゃあ、クソしながらここで待ってろ。何処にもいくな。迷子になるから絶対に絶対に動くんじゃねえぞ。俺は用事があるか…ら………」

お前、自分でケツが拭けたっけ?

それを教えた記憶はない。すぐにかぶれて赤くなるザジの尻を見ながらゾロが呟いた。
そして慌てて立ち上がり、小高い丘から辺りを見渡すとそこに鷹の目の姿は何処にもなかった。
ぽかぽかと春の日差しが暖かい。何処からか、甲高いひばりの鳴き声が聞こえるだけだった。





無言でザジの尻を拭いて、また身支度を整え、そして枯れ草の上に座り込んだまま両手で頭を抱えたゾロに、
「ないない」
ザジが声をかけた。
「……ああ、『ないない』だ。奴はいっちまった…」
「ないないないない」
「……何だ、俺がいらねえってのか?そんなのもっと早く言えってんだ。誰が好き好んでてめぇの世話なんか…。せっかくのチャンスだってのに……」
深い溜息をつくゾロに、また『ないない』とザジがいう。
「…ったく。誰の所為で俺がこんな苦労をしてると思ってやがる…」
何度も何度もゾロに声をかける。
あまりのしつこさに不思議に思い、その顔を見るとひどく困った表情だった。

「…お前、もしかすると俺の心配してんのか?落ち込んでるから?」
真っ直ぐと自分に向けられた青い眼が微妙に揺らめいている。くるくると巻いた眉も垂れ気味だ。
また『ないない』というと、今度はゾロにぎゅっと抱きついた。

心配ない。
心配は必要ない。
心配はいらないと、小さな身体がゾロを包む。


「……お前」

その身にもたれるように頭をおくと、ザジはよろめきながらもゾロを支えようとした。

「……お前、頼むから早く大きくなってくんねえか…」






また、ぴいちゅるぴいちゅる雲雀が鳴いている。野にも山にも春が来たと小鳥が囀る。



この春、ザジは2歳になった。










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2007/5.21