さようなら、ザジ 5








ゾロは赤ん坊になったサンジを抱いて、港へと向かった。



「おい、大丈夫か?やはり山の民に育ててもらったほうがいいんじゃないのか?ここまで戻っちまったんじゃ、いくらなんでもアンタには負担が大きかろう」
「や、せっかくだが、心配いらねえ」
オーナーの有難い申し出を断って、というよりも断わらざる得ない状況であったが、その言葉に後ろ髪を引かれる思いでゾロはサンジを抱き上げた。
「いやいや、手放すわけにゃいかねえよな。だってアンタの『天使の贈り物』だもんな」
ガハハハハ、大事にしてやれよ、とまだゲラゲラ笑うウェイターには、
「おおっと、足が滑っちまった」
ぐりぐりと足を踏みつけ、身を立て直すついでにと顎に下から頭突きをくれて世話になった店を後にした。





人の5倍歩いてどうにか港に着くと、ゾロはグランドラインから出る為の船を探した。
23人に声を掛けたが、いくら人相が悪くとも子連れで安心するのか、皆の対応は悪くない。とても丁寧に教えてくれる。特に婆さんは赤ん坊が好きらしく、頼みもしないのに寄ってきては、
「ほんとに可愛いねぇ、こんなにちっちゃい手をして。ほらほら、ほっぺたなんかまるで白桃のようじゃないか」
手を握ったり柔らかい頬を突いたり、やたらと触って抱きたがる。そして、
「女の子なんだろ?え、男かい?おやまあ、将来男前になって女を泣かせるんじゃないよ」
その白桃にすりすりと頬ずりをした。泣かせるというより女にはいつも泣かされているぞと、教えてやれるものなら教えてやりたい。それよりも、そんなに可愛いならいっそ貰ってやってくんねえだろうかと思いながらおとなしく黙っていると、
「名前は?」
「あ?」
「名前だよ、名前。この子の名前。あんたは若いのに耳が遠いかい?」
赤ん坊の名前を問われた。
無視することもコックと答えるわけにもいかず、仕方なく小声で、
「サ…ジ」
と答えると、
「サジ?ああ、ザジかい。ウチの孫と同じ名前だねぇ。ウチのも赤ん坊のころはあんなに可愛かったのに、今じゃすっかり憎まれ口ばかり叩くようになっちまって…。ありゃ母親の躾が悪いんだね、きっと。影で私の悪口ばかり言ってんだろうよ、じゃなきゃ……」
延々と嫁の悪口を並べ立て、少し気が遠くなりかけたゾロの腕に赤ん坊を返して、
「人生はね、いろいろあんだよ。まだ若いのにひとりでこんな赤ん坊を連れて、何があったかは知らないがそれでも悪いことばっかじゃないんだ。アンタもくよくよするんじゃないよ」
しっかりおしよ、と励ましと共にある名前をもらった。


「おい、あんた!もうすぐ船が出るぞ!」
そして船頭から声をかけられて、ゾロは船に乗り込んだ。










船の中には様々な客がいた。その船でゾロは同じくらいの赤ん坊を連れた若き母親らしき女と一緒になった。燃えるような赤毛の、自分が知っている赤毛とは違い小柄でおとなしそうな女だ。
「まだお誕生日前よね?ウチのと同じくらいかしら?」
「アンタんちのはどのくらいになる?」
7ヶ月よ」
ということは、コックの誕生日はたしか3月だから今は生後およそ8ヶ月ということになる。
赤ん坊を通じての会話は何故か途切れない。「もう離乳食は始まったの?」、「いや、まだだが、何を食わせたらいい?」とか、「夜泣きはするの?」、「あ?夜泣きっちゃなんだ?」、交わすそれはママ友のようで微妙に違う。
名前は?と訊ねられ、「ロロノア」と答えたらクスリと笑われた。「それはあなたの名前よね?」。
女はどうやら赤ん坊の名前を聞いたらしい。
躊躇わずに、『ザジ』と答えた。
その本人は先程からひどくぐずっている。
「何だってんだ、お前は?おむつか?それとも眠いのか?」
眠いならとっとと寝ろ。遠慮はいらねえ、ずっと寝てろと、ゾロは抱いて言葉をかけるがザジは身体を反らして泣くだけだ。その顔は息張って真っ赤で、赤ん坊とはよくいったものだとゾロが感心してると、見かねたのか女が手を差し出した。
「ちょっと私に貸して」
女が慣れた手つきで泣きぐずるザジを抱きあげ、おむつでも確認してるのかその股を触って、
「ねえ、この子のママは一緒じゃないの?もしかすると、あなたひとり?」
ゾロが小さく頷くと、背を向けて自分の胸を開いた。赤い髪の向こうで、黄色い頭が必死でその胸にしがみついているのが見える。余程、腹が減っていたのかもしれない。
「赤ん坊はしゃべんねえから、何が言いたいのか全然わからん…」
ゾロが溜息をつくと女がまた小さく笑った。



「子供を連れて私の生まれ育った島に帰るところなの。主人は海軍と海賊の争いに巻き込まれてしまって、子供が生まれたばかりで、それはとても楽しみにしてたんだけどね…。余計なお世話かもしれないけど、赤ちゃんを抱えてあなたもいろいろと事情があるんでしょ?もしよかったら、この赤ちゃんのおっぱいは私のをあげてもいいわ」
そんな有難い申し出なら、ゾロとしては願ってもないことだ。こんな船ではミルクだって用意してあるかどうかわからないし、それよりもゾロは赤ん坊に何を与えていいのかわからない。
寡婦になった女は実家に戻るべく、子供を連れてこの船に乗り込んだという。
だが、これからの船旅を考えるとかなり不安があるらしい。
いつこの船が海賊に襲われるかもしれないし、またどんな争いに巻き込まれるやもしれない。夫のことがあるから尚更心配なのだろう。
ザジにおっぱいをあげる代わりに、船に乗っている間だけでいいからゾロに自分たちを守ってもらいたい、それが女の要望だった。
「実はあなたの手配写真を見たことあるの。とても強いんでしょ?お願い。私たちをちゃんと守ってね」
そう笑う女は若くてもしたたかな母の顔だ。





途中でさまざまな島に立ち寄り燃料や食料を補給して、女に子育てのことを教わりながらたまに襲い来る海賊達と戦い、そして夜はザジを隣にして眠る、そんな生活を送った。
煙草のにおいなんて何処にもなく、ずいぶん乳臭くなっちまったと、その小さく柔らかい身体からは甘いおっぱいの匂いがする。
何だかなァ、何でこうなっちまったんだと思わないでもないが、考えても仕方ないことは考えない、それをすっぱりと割り切れるのはゾロの美点といっても良いだろう。
そうしてグランドラインの外れにある島にたどり着くまで、それは約2ヶ月に及ぶ船旅だった。

「自分のおっぱいをあげたからかしら?別れるのが辛くなってきたわ…」
最後にザジを抱いて頬に口付けを落とすと、名残惜しそうに女が船を降りてゆく。
「これからアンタも頑張れよ」
船からゾロが声をかけると女が振り向き、
「あなたもね」
笑い、その遠ざかる姿をザジが必死になって眼で追った。
あ〜あ〜と言葉にならない声でゾロに何かを語りかけ、女の後を追いかけようとたどたどしい足取りで甲板を右へ左へと歩き回る。
「何だ、お前もついていきたいのか?」

頼めるものならいっそコイツも一緒に連れてってくれと頼みたいくらいだ。
女の後姿が小さな点となり、ついに見えなくなるとザジはゾロに抱っこをせがんだ。自分に伸ばされた腕をとって抱き上げると、青い眼の中に小さな不安が浮かんでいるのが見えた。
「俺はまだもう少し一緒にいるから。そんなに心配しなくても大丈夫だ」
どうせまだ通じないだろうと思いながらも語りかけると、ぎゅうとしがみついたその身体はほんのりと乳臭かった。





1歳を過ぎて、歩き始めたザジは落ち着きがない。言葉だってまだ何をいっているのか全然わからないし、なのに日増しに自我は育つらしい。
やわらかそうなモノを与えれば、それじゃ嫌だとスプーンを手で押しのけて別なものを手掴みする。
「そりゃ、お前にはまだ早いんじゃねえのか」
だがコイツなら腹を壊すこともあるまいと放って置けば、硬いものを必死で頬張るザジに、小さく白い歯が数本生えているのが見えた。
いつの間に生えたのか、ゾロは気づかなかったがザジは確実に成長していた。










女が先に降りて、その2ヶ月後にようやく船はグランドラインの境までたどり着いた。グランドラインは入るときと別に、出るときのルートがあるらしい。自分たちが最初に通った場所ではなく、それは大きく賑やかな街だった。
通りにある様々な店には珍しい商品が溢れかえっていた。
赤や黄色、いろいろな色や形のキャンディや菓子はザジの眼にはおそらく宝石箱のように映ったに違いない。
甘い匂いと色に誘われるように、ふらふらきょろきょろと落ち着きがない様子だ。
「おい、俺のそばを離れるなよ。迷子になってもしんねえぞ」



メインストリートは飴売り、いい匂いのする魚のフライ、ソーセージなどたくさんの出店が立ち並んでいた。
人通りも激しく、ゾロのズポンの裾を握り締めるザジを連れて人の波に揉まれるように歩く。活気があるのは結構だが、いくらなんでも人が多すぎる。不思議に思いゾロは道行く男に訊ねた。
「何だ、この島はいつもこんなに人で溢れかえっているのか?」
「いや、今日は年に一度のパレードがあるんだ。周りの島からも大勢見物にやってくる。そりゃあ賑やかだぜ」
「パレード?」
だからこんなに人が多いのかと立ち止まって辺りを見渡すと、流れに沿って歩く人々と体がぶつかってしまう。それくらいそこは大勢の人間で溢れかえっていた。
そのとき、ゾロは足元に違和感を覚えた。
気づくとそこにいたはずのザジがいない。
いつの間にいなくなったのか。ついさっきまで足元にいた筈だ。
ゾロは道を戻るように人の流れに逆らい、頭が黄色く小さいものを捜した。
そんなに離れてはいない筈だと視線を落とし、その名前を呼ぶ。
「おい、ザジ!」
何度も名前を呼んで、そこら辺を歩く人々にも声をかけた。
「黄色い頭をした、眉毛が巻いた小さいガキを見なかったか?」
どこからか高らかなラッパの音が聞こえ、人の数はますます増えて、ストリートはぎっしりと埋め尽くされた人間の海のようだ。
「ザジ!返事をしろ!」
まだ言葉が話せない子供の、まだおむつをしている子供の手はちゃんと握っていればよかったとゾロは後悔した。無意識のうちに左手をぎゅっと握り締め、いたたまれないほどの不安と後悔、嫌な予感が胸を掠める。
あまりに小さくて、誰かに蹴られたり踏まれてはいないか。もしや連れ去られたりはしまいか。

また大声で呼びかけると背後から「あ〜」と甲高い声が聞こえ、急いで振り返ると親に抱かれた別の子供だった。
こんなにも人が多いから捜すのが難しいのだ。いっそ『竜巻』で周りを吹き飛ばしたいが、もしも近くにザジがいたら小さくて軽いからそれこそどこまで吹き飛ばされるかわかったものではない。
人の波を押しのけてゾロは走った。
小さく黄色いものを目印に、視線を落として名前を呼びながら走る。
「ザジ!」
突然、周りから地を揺るがすように大きな歓声があがった。
動物や魚、様々モノをかたちどった色とりどりの大きな張りぼてが通りをやってくる。五色の布がゆらゆらと青空を泳ぎ、鼓笛隊の派手な演奏やひらひらと舞い飛ぶ紙吹雪。
人々の歓声がまるでうねりのようだ。
呼びかけは歓声や楽器の音に掻き消され、足元と指先が冷えていくのを感じたゾロはまた左手を強く握り締めた。





陽が傾くと、大きな夕陽が街をオレンジ色に染めあげた。
パレードが終わって、すっかり人通りに少なくなった道路を紙吹雪が雪のように埋め尽くしている。
歩くたびにかさかさと舞い上がり、出店はどこも店じまいして昼間の喧騒は跡形もない。
もうすぐ夜だと、西の空にはきらきら輝く一番星。
ゾロは何度通ったかわからない道をなぞるように歩いている。
何処をどう通ったかは覚えていないが、何回も見覚えのある看板が眼に入る。おそらく幾度もその道を歩いているのだろう。

通りの店は次々と戸締りをして、街灯がぽつぽつと黄色い灯りを点し始めた。
既に戸締りした店横にある細い暗がりに、何かがうずくまっているのが見えた。建物の間にある僅かばかりの隙間だ。そこに微かに浮かぶ金色のもの。闇の中で両足を抱え項垂れ、小さい身体を小さく丸めたまま横たわっていた。

「…馬鹿が…。小さいくせにそんな狭いとこに入って小さく丸まってるから見つかんねえんだ…」
起こさないようにそっと抱きかかえると、その顔はひどく薄汚れて小さな擦り傷がたくさんついていた。
顔にこびり付いているのはおそらく涙と埃だろう。細い腕も手も服も黒ずんでいて、その汚れ傷ついた小さな手をゾロは掌に包み込んだ。










ゾロは此の地からグランドラインを離れ、イーストブルーにある自分の故郷まで戻ろうと考えている。

「ここからまた別の船の乗るぞ」
青い海を遠く指差し、抱き上げたザジに声をかけると、「あ〜」と答え、
「お前、いつになったら話せるようになるんだ?ゾロだ、ゾロ。言ってみろ。今度迷子になっても俺の名前と自分の名前ぐれえ言えなきゃどうしようもねえだろ」
また、「あ〜」とか「う〜」、「ぶぅ〜」と言葉にならない声で、ザジはゾロにしがみついている。
ゾロはまた海賊狩りに戻った。
手っ取り早く、生活及び移動資金を稼ぐためである。また迷子になると面倒なので、たとえ闘いの最中でもゾロはザジを傍に置いている。ただ置いておくと性懲りもなくまた何処へいってしまうかわからないので、時には背中に背負ったりもする。


「あ、これか?いいから気にするな。これでもいろいろと事情があんだ。背中の傷は剣士の恥っつうだろ?俺の背中まで心配してくれなくて結構だ。なんも問題ねえ。それよりも、赤の他人のことより自分の心配をしたらどうだ?」

海賊と戦うゾロの背中で、ザジはもうすぐ14ヶ月になろうとしていた。










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2007/5.9