さようなら、ザジ 19








「全治2ヶ月だね」
医務室でチョッパーがゾロに言った。
彼は白衣とくるくると回る椅子がかなり様になっている。
「完治するまで酒は飲んじゃ駄目だ。もちろん鍛錬なんかも厳禁だからな。内臓もかなり傷めてるから、なるべく消化のいい食べ物と、充分な睡眠を心がけてくれ。あ、睡眠は足りてるな」
ようするに絶対安静だと、チョッパーはそう宣告した。

ミホーク戦のあと、ゾロは2日間眠り込んだ。
眠りから覚め、展望台に行って軽く鍛錬して、キッチンへ行くと誰もいないので勝手に酒を飲んでいると、チョッパーに見つかって医務室へ引きずり込まれた。

「聞いてるか、ゾロ?絶対安静だからな!」
2度目に医務室へ連れ込まれたときにそう怒られたが、3度目の時にゾロが、
「酒は少し控える。鍛錬も短くする。消化のいい食いモンにしてる。睡眠は充分とってるぞ」
そう言うと、
「頼むから安静にしてくれよ……」
『絶対』が取れた。




船はアラバスタへ向かわずに、グランドラインを進んだ。
少し落ち込んだ様子のナミに、みんなが、
「金の回収なら、帰り道にこっそり寄ってやるから。それまで我慢しろよ、ナミ」
「海賊がたくさん押しかけたらビビが迷惑するだろ?それと、可哀想だから少しまけてやってくれないか?きっと10億ベリーなんて無理じゃないかと思うんだ……」
「そんなにガッカリしたツラをするな。飯が不味くなる」
そう、声をかけ、
「ラフテルに行くときはビビも一緒だ。仲間だからな。また腕に印をつけて包帯巻くぞ。帰りはアラバスタに寄って飯でも食うか?肉食えよ、ナミ。元気が出るぞ」
船長は楽しそうだ。
「大丈夫よ。またいつかきっと会えるわ」
ロビンにそう声をかけてもらえなかったら、ナミは切れていたかもしれない。
ただ、ビビに会いたかった、その本当の気持ちに男たちの誰も気づいてやれないのは、やはりナミにとって不幸といってもよいだろう。





1週間後の夜のことだった。
部屋の灯りを消して、こっそりと展望台で鍛錬するゾロの元へコックがやってきた。
「またチョッパーに泣かれるぞ」
機嫌でもいいのか、その手に銀のトレーを持っている。
ザジがこうしてゾロへ近づくのは、近頃では滅多にないことだ。あんなにも懐いていたのに、今ではほとんど近寄ろうともしない。だからただ機嫌がいいのだろうと、ゾロは考えた。
そのトレーに置かれていたものは紅茶セットだった。

「……ちっ。酒じゃねえのか」
落胆した様子でゾロがいうと、
「たった1〜2ヶ月だ。そのくれぇ我慢できねえのか?」
ダイケンゴーになったんだろ、ととぼけた声だ。
「カタカナはやめろ」
バカにされている気がする。この男がいうと尚更だ。
ほら、と手渡された紅茶から、ほんのり酒の匂いがした。どうやらコックなりに気を利かせたつもりらしい。
紅茶を置いて、その場を立ち去ろうとしたところにゾロは声をかけた。

「ザジ」
と、呼んで、
「中途半端に酒の匂いを嗅いだら余計飲みたくなった。グラスでいいから飲ませろ」
すると、ザジはとても不思議な顔をした。暗くてはっきりとは見えなかったが、それはゾロが見たこともない表情だ。
床に座って、タバコに火をつける。薄闇に小さな火が灯された。
「部屋が暗くてちょうどいい」と、白い煙をはき、
「なかなか言う機会がなかったが」、そう前置きしたあと、

「てめぇにゃ、世話になった」

低い声が部屋に小さく響いた。
少し沈黙した後、
「まさか、てめぇの世話になるとは思わなかったぜ。どこまで戻っちまうか確かに不安はあったが、まさか赤ん坊まで戻っちまうとはな…」

ザジとサンジがシンクロし、そして重なる。





ゾロがポケットからある物を取り出し、
「手を出せ」
その掌に落とした。

銀の懐中時計

「お前の忘れモンだ」
闇に、俯いた金色の髪が光る。
掌に乗せられたものをザジは指先で数度撫でてから、手探りでその螺子を回した。

小さな金属の音色が部屋に響き渡る。
綺麗な音を刻んで、
少しずつ、
少しずつ、
ゆっくり遅くなって、最後に音をぽつんとひとつ残し、そして消えた。

蓋を閉じると、それをゾロの手に戻した。
「お前にくれてやったモンだ。てめぇが持ってろ」
微かに笑っているようだ。
「持っていてもらえるとは思わなかった」
ゾロがそれをまたポケットに入れるのを、ザジが眼で追う。
「これを渡すためにお前のところへ行った。まさかあんなことになってるとは思わなかったがな。だが、これは貰っておく」
19年前の出来事だ。
普段は荷物の奥底にしまわれ、これを思い出すことは滅多にない。大切にしてる訳ではないが、不思議と壊れたり、なくなったりしない。
忘れた頃に姿をみせ、そしてゾロに思い出させる。
これを返すことに躊躇いはなかったが、だが戻ってくるとほっとする。何故か手離しがたい物のひとつだ。





暗い夜の海を見ていたザジが、ゾロに声をかけた。
一度しかいわねえから、ちゃんと聞いとけ。そういってから、
「感謝してる」と、初めてコックが感謝を口にした。その顔は俯き加減で、しかも髪が顔にかかって表情がわからない。

「遠慮はいらねえ。思う存分、俺に感謝しろ」
「ほんと、てめぇは変わらねぇな。その俺様ぶりといい。ちっとばかり外見は老けたが、あれか?若い時から老けてる奴は、年くってもあまり変わんねえってヤツだよな?」
昔、同じことを誰かから言われたような気がする。
そして、
「お前さ、俺のことをザジって呼ぶだろ?この船で俺のことをそう呼ぶのはてめぇしかいねえってこと知ってるか?」
「俺にそう呼ばれたくねえのか?」
反対に訊かれ、ザジはそれを否定した。
「違う。問題は俺の名前が2つになっちまったってことだ」
だから、とザジがゾロを正面に見た。

「ひとつは捨ててもいいと思ってる。や、名前を捨てるのはなんだ。なんなら封印してもいい」

「封印?」

「ザジとしての記憶もサンジも両方ある。どっちかっていうと、少しだけサンジの方が弱いかもしんねえ」

「名前をひとつにしても片方の記憶が消えるわけじゃねえだろ?何でそんなことをする必要がある?」

「これから先の為に」

自分のスタンスを確認するために、それが必要だとザジが説明した。
そしてそれをゾロに決めろ、と。
「俺に?自分の名前だ。好きなほうを選んだらいいじゃねえか」
「てめぇが勝手に増やしやがったくせに…」
「俺じゃねえ。どこぞの婆さんだ」
「そこらの婆さんに勝手に付けさすんじゃねえよ。俺の名前をなんだと思ってやがる」

何だろう。
ゾロは改めて考えた。口を閉ざしたゾロにザジが問いかける。

「『ザジ』ならてめぇの息子の名前だ。つうか、息子のように接してやる。『ザジ』はてめぇに懐いてるぞ。慕ってるといってもいいかもしんねえ。さぞや待遇もいいはずだ」
微かに笑い、そして、
「だが、『サンジ』なら…」

そのまま彼が沈黙した。
開け放たれた窓から波の音が聞こえる。
静かな夜の海だ。
このまま何も聞こえなくていいと思えるくらい、余計な言葉など必要ないくらい静かだ。
その沈黙をゾロが破った。

「サンジなら?サンジなら何だ?」

問いかける。

「仲間か?それとも恋人か?恋人の名前か?」

尚も問いかけると、俯いた金色の髪が微かに動いたのが見えた。
それは震えているようにも見える。
同い年ならば、ずっと意地の張り合いをしていたかもしれない。それに気づくこともなかっただろう。
銀の懐中時計。
それが何故自分の荷物に入っていたのかさえも。


波の音しか聞こえない。
窓から差し込む月光の細い光が部屋を照らす。微かな光だ。






小さな音が聞こえた。

ブッ、と。
はて?ゾロが思う間もなく、
ブブッ、と吹き出す声と共に、
「アハハハハハハハハハ!」
大きな笑い声がして、「ひぃ、腹痛ぇ…」と両手で腹を抱え、

「『サンジ』でいいんだな?」

ニヤリと笑う。
その表情がとても懐かしい。

「やっぱ、てめぇは俺に惚れてんじゃねえか」

ニヤリがニマニマに変わった。







「………なし」
「何が?」
「今のなしだ。聞かなかったことにしろ。つうか、返せ!」
「ボケ。誰が返すか!」
「ふざけんな!卑怯だぞ、てめぇは!」
ゾロが怒鳴った。

その後、宴会の時にべろんべろんに酔っ払ったサンジから、
「ミホーク戦な、お前カッコよかったぜ?」
惚れ直した。と、こっそり耳打ちされたのは後日談だ。サンジは『俺は言ってない覚えてない。気のせい』と言い張るが、ゾロはそれをまるで鬼の首を取ったかのようによく覚えている。

「いいから返せ!もう二度とてめぇの名前なんざ呼んでやらん!」
「絶対に返さねえよ!なァ、もう一度呼んでみ?『サンジ』ってよ。てめぇの恋人の名前だろ?」


憮然とした表情でゾロが立ち上がった。
「何処に行くんだ?」
「酒」
「早く戻ってこいよな。愛しあおうぜ〜。恋人同士なんだからさ」
クククッと笑うさまがとても憎たらしい。
「ひとりでマスでもかいてろ」








ゾロが展望台から甲板に降り立ったとき、頭上から自分を呼ぶ声がした。

「ゾロ」

見上げれば満天の星空。天から零れ落ちそうなほどの輝きだ。

「ゾロ。忘れモンだ」

上から、サンジがひらひらと黒い布を指で摘まんでいるのが見えた。

「ゾロ?」

返事がないからか、また名前を呼ぶ。
低い声だ。もう幼さはどこにもない。だが、また天から名前を呼ばれた。


「お前も降りてこい」
下から声をかけた。呼ぶと素直に来てしまうのはザジの名残だろう。
自分の前に立たせ、その頬に触れ、そして髪に触れた。
「1分でいい。すぐに済むから、お前絶対に何もしゃべるんじゃねえぞ」
不思議そうな顔をするサンジにそう釘をさして、



「ザジ」

名前を呼んだ。

「お前と過ごした日々は楽しかった」

珍しくすんなりと言葉がでる。

「大変なこともあったはずだが、不思議とそういうのは思い出せん」


ザジを両腕に抱いた。あの小さな身体はどこにもなくて、微かにタバコのにおいが鼻をくすぐる。
自分の掌にすっぽりと包み込んだ、あの手はもうない。
それはコックの手だ。

「ノースやサウスブルー。いろんな海で戦ったことが俺の糧になった」

「俺の時間にも、お前の時間にも無駄なんざ一時もねえんだ」



「ザジ」



「もうお前をそう呼んでやることはできねえが」





お前がいてよかった。










上弦の月が高く天空の真上に輝き、金色の髪に光を与える。
ゾロは自分の肩に乗せられた髪が少しくすぐったい。
ずっと黙ったままのコックの肩が小さく震えているようだが、もしかすると気のせいかもしれない。
肩に乗せられた顔が、ひどく温かく感じるのも気のせいだろう。
だが、今度は笑っているわけではなさそうだと思いながら、ゾロは夜空を見上げた。



それは天の宝石箱。
見事なまでに、満天の星空だった。










NEXT