さようなら、ザジ 16









「と、言うわけだ」
巨大な水槽が置かれた部屋にいるのは初期メンバーである。
ある者はソファに腰掛け、または立ったままの状態で、ゾロが話し終えたときに「ゴッ」とルフィがうたた寝から眼を覚ましたのか鼻を鳴らした。

「……終わったのか、ゾロ。……ホント、長げぇよ…」
「これでもかなり端折ったんだぞ。半分寝てたくせに文句いうな」
端折ったことのひとつに、あの山でセックスしていた部分がある。あまりに遠い記憶で、そんなことがあったということすら思い出すのも難しいくらいであるが、当然そこまで言う必要はないと思ったからだ。
つい先程まで、そのコックの顔すらも忘れていた。だが見れば嫌でも思い出す。
欲望を吐き出すように、互いを貪りあった日のことを。

昔のことなどとうに忘れていたと思っていたが、話すうちにさまざまな記憶が蘇ってきた。
始まりはあの島だった。赤ん坊になったコックを連れて、いくつもの海を渡った。
イーストブルーで、ノースブルーで過ごした寒い日々も、そしてサウスブルーでザジを見送ったこともまざまざと思い出せる。

「ようするに、ゾロはサンジのとうちゃんだったわけだな」
船長が鼻をほじりながら言った。
「言うと思ったぜ。面倒見ただけでとうちゃん呼ばわりされる覚えはねえぞ」
「だって、オムツを交換したんだろ?」
「好きでしたんじゃねえ。だいたいヤツはシモがゆるい。ションベンばっか漏らしやがって、容易じゃなかった」
「おんぶしたんだよな?」
「ちょろちょろしやがるから、やむにやまれずだ」
「言葉も教えたんだろ?」
「口が遅かったからな。ヤツァ、3歳までロクに喋れなかったんだぞ?」

ブッ、と音が聞こえた。
見ればウソップの肩がぶるぶる揺れている。
「…ちょっと、ウソップ。笑っちゃ悪いわ…」
ナミはそれを咎めたが、ルフィは平然と軽い調子で、
「ああそうか。とうちゃんじゃなくて、かあちゃんか?」
「…か、かあちゃん?」
ゾロが驚いたように言うと、またブブッと吹き出す音がして、
「……チョ…ッパー…」
ナミの肩も震えた。
ルフィはまだ鼻をほじっている。そしてピッと飛ばされた鼻くそを、ひょいとゾロが避けると、それは背後にいたウソップの鼻にくっついて、
「うおおお!汚ねえええ!ゾロ!何で避ける?つうか、飛ばすなルフィ!」
喚き散らした。


「アハハハハ!何だ、そんなことしてたのか?さっさと船に連れてくりゃ良かったじゃねえか。バカだな、ゾロは」
ルフィがそう笑うと、
「ブッ」
「プッ」
と、吹きだす音と共に、堰を切ったかのような大きな笑い声が部屋に響き渡った。

「………クソ。だから言いたくなかったんだ…」
ゾロが仏頂面で酒を口に運んだ。あの苦労を、『船に連れてくればよかった』と簡単に片付けられてどうも納得がいかない。


「…ああ、お腹痛い…。で、サンジくんはいつか私たちのことも思い出すのかしら?」
ナミが涙を拭いながらゾロに訊ねた。
「思い出すだろ?きっとまだ年齢的にお前らに出会ってねえんだ」
「そう。じゃ今は18歳くらい?」
「そのくらいじゃねえのか?ザジと別れてからもうすぐ10年になるからな」
「そういや、アンタさっきもサンジくんのことそう呼んだわね。何でザジなの?名前くらいちゃんと呼んでやりゃいいじゃないの。そんな勝手に違う名前をつけないで」
「俺がつけた訳じゃねえ。ありゃどっかの婆さんに貰った名前だ」
「誰から貰ったとしても、名前くらいはちゃんと呼んであげなきゃ。何でそう偏屈なのかしら」
偏屈だとナミにいわれ、ゾロは自分の祖父を思い出した。そして、その祖父に不本意ながら似ていると両親に思われていることも。
「そういや、ゾロってサンジの名前を呼んだことあるか?そんなに言いにくいか、アレ?」
昔を思い出しながらウソップが首を傾げた。
確かに名前を呼んだことはない。
それに理由があったのか。どうしてそんなことにこだわっていたのか。
だがゾロとしてはそんな昔のことはどうでもいいことだ。きっと考えても答えはでないだろうと、今では考えることすら放棄している。
「喧嘩ばっかしてたもんな、おめぇら」
懐かしそうにまたウソップがいった。
「いつも船を壊されてよ。懐かしいぜ、メリー……」
「若かったから、血の気と体力が馬鹿みたいに有り余ってたのよね」
そう若かったから、あんな形でしかコミュニケーションが取れなかったのかもしれない。
「でも仲良かったよな、おめぇら」
船長が笑う。
「アレが?」
「アンタ、何か勘違いしてない?」
「え?仲良かっただろ?だからゾロもサンジの面倒見たんだよな?」
「…オムツを交換したり?」
「…読み書きを教えたりとか?」
「……おめぇら、何がいいてえ…」
ゾロの額がぴきぴきと鳴り、赤黒く染まると、
「…あまり馬鹿にしちゃゾロが気の毒だよ」
チョッパーがおずおずと口を開いた。
「赤ん坊を育てるのはとても大変なんだ。小さいからいろいろ病気だってするし…。船に連れてきたら、それはそれで大変だったと思うぞ。海賊船だし危険が伴うよな…。ゾロは男手ひとつで戦いながら面倒見たんだ。だから偉いと思う…」
最後は消えそうなくらい小さな声だった。
「…ごめんね、チョッパー」、「そんなつもりじゃねえんだ…。悪かったな、チョッパー」と二人もしんみりした顔だ。
何でチョッパーに謝る?だがこんな風にいわれたら、チョッパーお前もさっき笑っていただろうと、ツッコミを入れることもできないし、気の毒だと同情されるのはゾロにしてみればもっと心外だ。

「まあ、とりあえずサンジはほっときゃ思い出すだろ。んじゃあ、ロビンを迎えにいって」
いよいよだな、とルフィはぱんと拳を大きく掌に打ち付けた。
グランドラインの最終地を目指す。それは真の海賊王へ最後の道程だ。
「ゾロ。心配すんなよ。お前も鷹の目といつか必ず戦える」
サンジのオールブルーだって見つかるし、ウソップだって海の戦士で狙撃の王だ。
俺たちの船は誰にも負けねえ。
そう語るルフィの言葉は力強い。

「そのサンジだが『俺たちの船に乗れ』って言って、簡単に首を縦に振ると思うか?あのひねくれモンのサンジだぞ?」
ウソップが心配そうに訊ねた。
「何で?乗るだろ?戻ってきたんだし」
だがルフィはそれに何も疑問を感じていないようだ。
「そうね。きっと説明しても混乱させるだけだと思うわ。どうせ時期がくれば思い出すかもしれないけど、何か上手い方法はあるかしら?」
「そんな面倒なことをしなくても、ただゾロが言えばいいだけだろ?」
「ゾロが?」
ウソップが訊いた。
何故こんなことで悩むのか船長は不思議らしい。
「親父の言うことは絶対だよな。俺はとうちゃんをしんねえが、じいちゃんは絶対だったぞ。口答えしては殴られ、黙ってても『返事くらいしろ』とまた殴られ、ガキの頃からいつもゲンコばっかもらってた。おかげで今でも逆らおうって気がしねえもん」
しししと船長が笑った。
『拳骨のガープ』、頑固親父を地でいったような祖父にルフィは今でも逆らえない。

「…ですって。ゾロ」
「…頼むぞ。ゾロ」
ナミとウソップが顔を背け、その肩はふるふると小さく震えている。
「……おめぇら、俺の目を見ながら言ってみろ」
すると、チョッパーが、
「……いいなサンジは。とうちゃんが出来て…。さっきは笑ったけど、少し羨ましいぞ…」
しんみりと言った。
「…おい、チョッパー?」
「…それって羨ましがるところ?」


皆が部屋を出るとき、ナミがぼそりと呟いた。
「だけどずるいわ、サンジくん。一人だけ若くなっちゃって…。すごく年下になっちゃったじゃないの…」
少し不満気な表情だ。そして、
「どこの島だったかしら?思い出せないけど調べてみればわかるわね。ねえ、ちょっと時間があったら寄ってみない?」
何故?とウソップとチョッパーが不思議そうな顔をして、ゾロは小さく溜息をついた。
「おい。誰もがそれを聴くわけじゃねえらしいぞ。現に俺は聴かなかったしな。何を考えてんのかしんねえが」
「いやあね。試してみるだけよ。10年、ううん。5年でもいいの」
それを聞いていたルフィが、
「5年だって10年だって、そんなに変わらねえと思うぞ」
ナミはいつまでも若い、と真顔で言う。
「とても40過ぎにゃ見えねえ」
「え?40?ちょっと誰のことよ!まだ花の30代だから!間違えないで!」
猛烈な勢いで怒鳴ったが、さすがにゾロも「あまり怒ると小皺が増える」と口にしなかった。シャレにならないからであろう。
だが実際のところ、ナミは非常に若く見える。
ザジに『ちょっとばかり年はいってるようだ』と言われたが、せいぜい20代後半にしか見えなかったに違いない。
だが、周りでそれに気づいてやれる男がいないのがナミの不幸だ。








「……だから、このまま俺たちと一緒にグランドラインに行かねえか、ザジ」
甲板で仲間と共にゾロはザジをこの船に誘った。
「俺が海賊になるのか?」
ザジは驚いた表情だ。どうやらそこまでは考えていなかったらしい。
「グランドラインへ行けば、オールブルーも見つかるかもしんねえ」
ゾロはそれを口にした。大切なコックの夢だ。
だが、ザジは小さく頭を左右に振る。
「…いや。確かにいつかはグランドラインへ行きたいと思ってた。だが、俺の乗っている船もこれが最後の航海なんだ。出来れば見届けてやりたい。それからじゃダメか?」
ザジの言葉にウソップはメリー号を思い出した。
ぼろぼろになって、最後の力を振り絞って自分たちを迎えにきてくれたあの船を。
炎に包まれた姿は、ずいぶんと昔のことなのに今でも胸が痛む。

「…なァ、ルフィ。もうちょっとだけ待ってやっても…」
ウソップの言葉を船長は遮り、
「いや。駄目だ。俺はもう待たねえ。俺はずっと待ってた。ゾロが帰ってくるっていったからな。だからサンジの意見なんかどうでもいいんだ。嫌でもなんでもお前をこの船に乗せる」
きっぱりと言い放った。
「ようするに俺の意思はどうでもいいってわけか?船長だかなんだかしんねえが、随分と偉そうだなあんた」
「別に偉くはないが、お前の意思はどうでもいい」
「……喧嘩売ってのか?」
物騒な表情で、ザジがタバコを海に投げ飛ばした。
「やるか、サンジ?俺は強くなったぞ」
ルフィがにやりと笑い、ウソップが「また船が壊れる」と心配して、ナミが、
「ほら、またアンタの出番よ。ここぞとばかりに親父風をびゅうびゅう吹かせなさい」
ゾロの背中を叩いた。
本当にこの女はひとこと多いとゾロは思う。


「ザジ。俺たちはこのままグランドラインへ行く。だからお前が一緒に行かないというならそれまでだ」
だけどな、とゾロが穏やかな表情で、
「お前、海の一流料理人になったんだろ?俺にこれから旨い飯を食わせてくれるんじゃなかったのか?」
笑った。


それじゃまるでプロポーズみてえじゃねえか、とウソップは愕然とした。
ロロノア・ゾロはいい男だ。
人相こそ悪いが意外と整った顔で、野生の虎のような雄々しさがある。いつもだらしなく寝腐れている姿から想像も出来ないほど、戦闘時はかっこいいと評判だ。ウソップとしてはあまり認めたくないが女にもかなりもてる。何故特定の女を作らないのか不思議なくらいであった。
年をとるごとに青臭さが抜けたゾロは、確かにいい男といってもよいだろう。先程のように穏やかな表情もできるようになったから尚更だ。
カヤが久々にゾロに会ったとき、
「剣士さん、かっこよくなったわね」
精悍な百獣の王って感じよ。ふふふと笑ったのが、とてもたまらなくウソップは気になっている。
カヤの顔が少し赤かった。


ザジは少し考えている様子で客船を見た。甲板にはコック仲間の姿も見える。
ちらりとゾロを見て、また船を見て、今度は青空を見上げ、そしてルフィの元へと歩いていった。

「ザジだ。サンジじゃなくてザジ。間違えるな。アンタが船長で間違いねえんだよな?で、この船にコックは何人いるんだ?あまり数が多いようなら俺は辞退させてもらうぞ」
「そんなら心配ねえ。お前が連れて来た奴だけだ。この船のコックはサンジ、お前だからな」
「ザジだ」
「わかった」
「よろしく頼む」
ルフィがしししと笑って、

「野郎共!サンジが帰ってきたぞーーーーー!」

両腕を高々と揚げ、青空に向って大声で叫び、

「ザジだ!何回も言わせんな!」

お前は人の話を聞いてんのか?とザジが怒鳴り、


この日サニー号に、十数年ぶりにコックが帰ってきた。










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2007/7.18