さようなら、ザジ 12








「コックに?」
ザジは躊躇うことなく、大きく頷いた。
「今、この港に大きな客船が泊まってて、海軍がきてたからずっと出られなかったんだって。それで、これからいろんな海を回るんだってさ。人が少ないから、子供でも『ザツヨウ』なら雇ってくれるっていうんだ。いつかちゃんと教えてくれるって」
「そこでコックの修行をしたいってのか?」
またザジが頷いて青い眼をゾロに向ける。
「それに、いろんな海を回れば、どこかでオールブルーを見つけるかもしんねえもんな?」
「そうだな」
「世界中の海を回ったら、世界中の食い物を食えるし、覚えるかもしれねえだろ?」
「ああ、覚えるかもしれねえ」
「もっともっと料理が上手くなるよな?」
「なるかもな」
「俺なら、絶対に一流の料理人になれると思わねえ?いや、世界一だぜ、きっと!」
ザジの強気な発言が可笑しくて、ゾロは小さく笑った。性格には環境による後天的なものと、先天的に生まれもった気質があるのかもしれない。
それに。と小さく口を尖らせ、小さな声で、
「そしたら、ゾロにも旨いモンを食わせてやれるだろ…」

「もう、決めたんだな?」
男のくせに、言い訳みてぇにいつまでもだらだらと理由を並べ立てるな。大人よりも二回りは小さいザジの黄色い頭をゾロは軽く叩いた。

「いつ、出発の予定だ?」
「明日」
「そうか」





コックになる。

これはザジの考えか、またはサンジの記憶かはわからないが、いつからそんなことを考えていたのだろうと、正直言えばゾロとしては複雑な気持ちだ。
もう、そんなことを考えるくらい大きくなっていたのかと、それにも驚いたくらいだ。
まだまだ子供だと思っていた。いや、もうすぐ9歳だが世間一般ではまだ充分に子供である。

その晩、ザジはベッドで夢を語った。
オールブルー。それは世界中の海がそこにあつまった、伝説の海だ。
その海で、いろんな魚を料理してみんなに食べてもらうのだという。
海の一流料理人になって、どんな海の生物でもちょちょいと料理して、それを食べた人に喜んでもらいたいと。
そして、強くなる。
強くなって大切なものは自分で守ると、瞼とともに唇が閉じるまで、ザジはずっとゾロにそれを話し続けた。

ザジの話を聞きながら、ゾロは思い出した。
自分も子供の頃から抱いている夢がある。
負けて負けて、いつまでたっても勝てない相手がいて、そのまま手が届かない別の場所に行ってしまった奴がいる。
あの時、自分に誓ったことは絶対に忘れないだろう。それは自分との約束であり、しょせん夢だからと諦めたくはない。
ずっとそれを追いかけて、ここまで来た。今、自分はそれに近づいているのか、遠ざかっているのか。

寝息を立てて眠るザジを見た。
8年前、隣で眠るコックが赤ん坊になっていたときの驚きは今でも思い出せる。あの日から、いったい幾つの夜を共に過ごしてきただろう。
大きくなったザジはもう寝ながらゾロに抱きついたりはしない。ましてや、南国の海だからなおさらだ。暑苦しいと、最近では寝ながら蹴っ飛ばされたりもする。
金色の髪をつまむとサラサラと指先からこぼれた。
久しぶりにその身体を抱き寄せたら乳臭い匂いはどこにもなく、いつもの匂いだけがそこにあった。










「もう、ここでいいから」
一緒に港まで歩くと、そこには大きな船があった。どうやらこの船にザジは乗り込むらしい。
「船まで一緒なんてやめてくれよな、小さいガキみてえだろ…」
ガキみたいじゃなく、立派なガキである。
だがゾロだってそんな過保護な親みたいなことをする気はまったくないし、してくれと言われてもそれは勘弁だ。
ザジの荷物は小さなバッグひとつだった。その小さな手荷物ひとつ持って、ザジはゾロから離れて違う人生を歩んでいく。

「ゾロ。帰り道は迷子になんねえように気をつけろよ。それとな、腐った食いモンは食べちゃ駄目だ。腹壊すぞ。ピーだぞ。後な、怪我したら…」

「ザジ」
その言葉を遮り、ザジと同じ目線の高さまでゾロは膝を折った。そして、空いた手のひらに小さく折り畳んだ紙を握らせた。

「何だ、これ?」
「海賊船の旗をかいておいた」
ザジがその紙を開くと、そこには確かに海賊旗らしきものが描かれてあった。
「ゾロ、すっげえ、下手クソ…」
「うるせえ。要はわかりゃあいいんだ。いいか、これは麦わら帽をかぶったドクロマークだ。そんなバカみてえなのは、おそらく世界でひとつしかねえ」
「海賊なのに麦わら?ヘンなの」
ザジが笑う。
「確かにヘンだ。だがな、未来の海賊王が乗る船だ。狙撃の王も、世界一がめつい航海士もトナカイの医者も乗っている。俺はこれからその船に戻って、大剣豪を目指す」
「ダイケンゴウ?」
「そうだ。お前は海の一流料理人を目指せ」

船の汽笛が鳴る。

「海は広い。とてつもなく広い。もしかすると、もう二度とあえねえかもしんねえ」

だが、とゾロが言葉を続けた。

「今度はお前が俺たちを探せ。これから俺が向かうのはグランドラインだ。こっちの海にはいつ戻ってこれるかどうかわからん。お前がそのとき、どんな船に乗ってるか俺らにはわからねえだろ?だから、お前がこの広い海から俺たちの船を見つけるんだ。わかるか?」

必ず見つけろ、戻って来いと。

ザジが頷くと、ゾロは「忘れるな。覚えとけ」と、黄色い頭をくしゃくしゃと揺すった。

立ち上がって、ゾロはザジの背中を押した。
「頑張れよ」
勢いに押されるように、ザジが船に向って歩き出す。
その小さく頼りなげな後姿にゾロは声をかけた。

「風邪ひくなよ」

コックがバラティエを去ったときの話は後からウソップから聞いて知っていた。自分は見てないが大泣きしたと聞いている。その少し前に自分も負けて同じように大泣きしたことを忘れ、久しぶりにザジの泣き顔でも拝んでやるかと、ゾロは真似してそう声をかけたら、

「風邪なんかひいたことねぇよ。それよりも迷子になるなよ、ゾロ」

振り返って笑った。
どうやら、ザジの情緒はまだそこまで発達していないらしい。


ザジが船に乗り込んだ時、また大きな汽笛が鳴った。
甲板を黄色く小さく頭がふらふら歩いているのが見える。そこへ白いコック姿の男が現れて、遅れてきたのを咎めているのか、黄色い頭をこ突きながら、そして奥へとその姿は消えていった。










「いっちまったか?」
店主がゾロに酒のグラスを手渡した。
借りている部屋を引き払うことを告げると、少しだけ付き合えと誰もいない酒場のカウンターにゾロを誘った。
「実はな……」
言いにくそうに言葉を続ける。
「…ウチの坊主があの子に余計なことを言っちまったらしい。『ひとり船に乗ってコックになるそうだ。お前とえらい違いじゃねえか』って俺が息子に言ったら、夕べは晩飯を食わなくてな。様子がヘンだから問い詰めたら白状しやがった。どうやら喧嘩したときに酷いことを言ったようだ…。元はといえば、しゃべっちまった俺が悪いんだが…。つい、あの子がアンタの子じゃないって話しちまった」
「事実だから仕方ねえ。だが、そんなんでコックになると言ったんじゃねえから、気にするなと伝えておいてくれ」
「…すまねえな。いつもは仲良く遊んでるんだがな、たまに大喧嘩をする。ヤツは今回のことは自分の所為だと、ったく馬鹿が、今朝は布団から出てきやがらねえ…」
「アンタの息子はザジにとって初めての友達だ。いくら喧嘩しても、毎日飛び出すようにして遊びにいってたぞ。楽しかったんじゃねえか?」
すると、何を思ったか店主が笑い出した。
「いや、笑ったりして悪い。つい思い出しちまった。楽しいといえば、あの子がアンタのことを俺に話したことがあってな。それが…」

『ゾロは強ええけど、ひとりじゃ何にもできねえんだ。飯なんか、なんも作れねえ。言わなきゃ同じ服を毎日着るし、風呂にも入らずに飲んだくれて寝ちまうこともある。それで一緒に寝ると臭くてかなわねえんだよな。それとな、誰にも内緒だけどすっげえ方向音痴なんだぜ。いつも同じところをぐるぐる回ってさ、人に道を尋ねて『ここを真っ直ぐだな、わかった』って言いながら、右に曲がるんだ。な?すげえだろ?』

「俺がそれを聞きながら笑うとな、受けたと思うのか喋る喋る。それがとても楽しそうな顔でアンタのことを話すんだ。どうやら、自分がアンタの面倒をみてると思ってるらしいぞ」
店主が2杯目の酒を出しながらまた笑う。

「……もしかすると、アレか?」
ゾロの小さな呟きは店主の耳には届かなかったらしい。

『おにぎり』を作って食わせた日を思い出した。
戦闘以外何も出来ないと思われていた自分が、あれを作ったのもザジにとって小さなきっかけだったのかもしれない。
だが、結果としてはザジの自立を促したことにもなる。

「どうした?」
黙り込んだゾロに店主は不思議そうな顔をした。
「いや、なんでもねえ。これだけは言っておかねえとな。ザジも楽しかったらしいが、俺もここは居心地良かったぞ。アンタには随分と世話になった。感謝してる」
酒を一気に飲み干し、荷物を担ぎ上げて出口へと向った。

「これから何処へ行くんだ?」

「帰らなきゃならねえ場所がある。そこで仲間と一緒に夢を叶えるつもりだ」

餞別だ、と酒瓶が1本投げられた。
そしてもう1本。
女には気をつけろ。迷子になるなよ。店主が笑った。

それを手に、ゾロはひとり海へと戻っていく。



9歳を目前に控えたザジの旅立ち。そしてそのときゾロは28歳になっていた。










NEXT