7.みどりの森となつの夜









年が明けて7月。
魔法使いは18になり、ルフィは5月で3歳になった。最近ますますうるさくなって、森を駆け回る動きは猿のように活発だ。かなり無茶な行動をしても不思議と怪我をしないのは、生まれつき運動神経が良いのかもしれない。
あと胃腸も丈夫だ。あれだけ食べても腹一つ壊さない。




春から秋にかけて、森は様々な実りをもたらす。
カラント、ビルベリー、スロー等をジャムやソース、果実酒を作るために森を歩きながら実を摘んだ。
この夏、初めてのベリーが生ったとき、半年振りにゾロがやってきた。



小屋に入るなり上着を脱ぎ捨てた。
「しかし今年はすげえ暑いな」
今年は春から夏にかけて雨が非常に少ない。
そしてこの地方にしては珍しく猛暑が続いている。

「ああ、草の実もなりが悪い」



旱魃になるかもしれない。
大地も空気もカラカラに乾いて、草も樹も水を欲しがっている。
この森は地下に水脈があるが、他ではそうはいかないだろう。魔法使いは、ただそれを見ていることしかできないことに心苦しさを感じた。
水を呼ぶことはできる。
少量の水ならば分けてもらうものだが、大量の水は奪うものだ。
人の身体に火をつけるように、それはやってはいけないことだと祖父から教えられた。



「来る途中の村で疫病が流行りだしていた」
ゾロが少しだけ眉を顰めた。嫌な光景でも見たのかもしれない。
「…人が死ぬな」
ゾロの言葉に軽く相槌を打って、魔法使いは岩場から運んだ冷たい水で作った果実水を手渡した。旨そうに一気に飲み干すゾロの喉を汗と水がつたう。



「今日は碌な土産を持ってこれなかったが、ナミがお前によろしく、だってよ」
「ナミさんが?」
ナミと聞いて、だらしないくらい顔が綻んだ。
ゾロが運んできてくれたもの。
一目でわかった。量、質ともにあまりよい物ではない。それだけ城もこの国も良い状態でないのだろう。それでも魔法使いは緩んだ顔を崩さなかった。ナミとゾロの心配りが嬉しかったのかもしれない。
今回持ってきてくれた物の中に、一冊の料理のレシピが入っていた。
この男がナミさんに何か言ったのだろうか。
一度だけ料理を褒められたことがあるのを思い出した。そして魔法使いは大切なものに触るように、両手でそれをそっと手にした。




悪いが4〜5日は泊まらせてもらう、少しゆっくりしたい。
要望を述べるなりどかっと床に座り込み、そしてその言葉通り、ゾロは連日寝てばかりいた。








「いい加減にしやがれッ!ごろごろごろごろ寝てばかりいやがって…。ちったあ手伝おうって気にならねえのか?」
1日目は旅の疲れもあるだろうと、魔法使いもそれなりに気を使った。
2日目、いつまでも寝ているゾロが目障りで外へ叩き出すと、今度は森の木陰でずっと寝ていたようだ。
3日目の朝、飯を食い終わるなり、ゾロはルフィを連れて森に出かけた。昼時になってひとりで帰ってきたルフィに「あの男はどうした?」と訊けば、「ずっと岩場で寝てる」と答え、夕方帰って来たゾロに魔法使いはついに怒鳴った。



「うっせえ!俺は最初にいったはずだ、ゆっくりしたいってな!言葉通りのことをして何が悪いッ!!」
「てめぇは頭の中まで苔むしてんのか?寝るっても限界があるだろ、フツー?」
「俺は限界を超える男だ」
「いいや、底なしの馬鹿だ」
そんな二人の横でルフィはひたすら夕飯を口に頬張った。





4日目深夜。ゾロは小屋の中で空気が動く気配に眼が覚めた。
小さな窓から漏れる月光が、くっきりと影をうつして小屋の中を照らす。
テーブル、椅子、竈、ベッド、ルフィの寝息。
そしてあの男がいないことに気づいた。
細く開けられた扉から流れ込む夏の夜風、誘われるようにゾロは身体を起こした。



どこまでも深い森、微かな虫の鳴き声と、夜に動く生き物の気配。天空から煌々とふりそそぐ月光。昼間とは違う別世界がそこにはあった。
視界の片隅に光る金色のもの。
草叢の中で樹にもたれかかり、うな垂れた頭部がゆっくりと動く。耳をすませば聞こえそうな息遣いは、何故か真夏の夜に相応しいような気がした。

知らないふりして立ち去った方がいいのだ。一番正しい行動は小屋に戻り、そのまま寝てしまうこと。
自分がされて嫌なことを人にしてはいけない、子供の頃に祖父にそう教わった。
だがゾロの足を止めたのは、時折漏れる小さな声。
身体を動かしたのは、枝に掴まろうと伸ばされた白い腕に光った腕輪。
月の光に、鈍く輝くターコイズ。
背後から歩いてくる気配に魔法使いの身体は動きを止めた。



「…無粋な奴だな、てめぇはよォ……」
ゾロはそのまま背後に腰掛けた。
「そうか?誰でもやってることだ、気にしなくていい」
後から見える耳朶が熟れた果物のように赤い。
「くそっ、出しそびれちまった…」
「お詫びに手伝ってやろうか?」
これに関しちゃ俺のが先輩だ、お前より上手いかもしんねえ、ゾロが笑う。
いらんお世話だ。すっかり萎んじまったぜと立ち上がりかけて、離れようとする身体を背後から抱きしめた。
男にしては華奢で肉つきは薄いが、筋肉が発達しているのは触ってわかった。
嫌がる男を宥めるように、「照れるな。落ち着け」と声をかける。




「お前ってなんか匂う」
背後から首元に顔を寄せた。
「に、におう?」
「別に嫌な匂いじゃねえから、そう暴れるなって」
「ちくしょー、3つ違うくれえで、ガキ扱いしやがって…」
背後から見える耳、そしてうなじまで赤い。ゾロは可笑しさが込み上げてきた。
「そんなに嫌がるこたァねえだろ。逃げなきゃ離してもいいぜ、名無しの魔法使い」
からかうつもりだった。
素直に反応を示すのが面白かったし、秘め事の邪魔したのも悪いとは思うが、こんな綺麗な月夜の晩だ。せっかくだから少し話がしたかったのは確かだ。





「何で俺が魔法を使えるかって思ったことねえ?」

低く、澄んで、落ち着いた、夜に似合う声が闇にとける。

「誰にでもできることじゃねえだろ?これってさ、血筋なんだよな」



赫足の魔法使い。
水、炎、風さえも自由自在に扱えるその男はそう呼ばれていた。
若い時はグランドラインさえも渡り、海王類を手なずけ、数々の土地で奇跡を起こした男。
老後は故郷のノースブルーへ戻り、穏やかな生活をしていたが、
幼い孫を連れて再び海に出たのはそれなりの理由があったのかもしれない。
孫の親に係わりがあるらしいとの噂があったのも事実だ。子供に両親はいなかった。



「俺はクソジジイっていつも呼んでた。名前は知らねえ。両親もだ。もっとも顔さえ覚えちゃいねえけどよ」

「ジジイは俺のこと『チビナス』って呼んでたぜ。本当にむかつくジジイだ」

「もう死んじまったけどな…」

「死ぬ前にある物をもらった。大事にしろといって」

「『これがお前の名だ』、と手渡された」

「こういう力は何か他のものと引替なんだと。代償のように失うものがあるって言ってた。我々の一族の場合、それが『名前』らしい」

淡々と話す内容にゾロは驚いた。何故この男が魔法を使えるかなど考えたこともないし、その力の為に何かを犠牲にしているなど、想像もしていなかったからだ。



「結構嫌なもんだぜ。大概みんな訊いてくるだろ『名前は?』なんてさ。今じゃ面倒で訊かれても知らんふりしてるけどな」

身体が小刻みに揺れている。笑っているのだろう。ゾロは手を緩めた。

「こう見えてもさ、俺って色々な物の名前を知ってんだぜ。たとえばお前のケツの下に敷かれている草にだって名前がある。人間が勝手につけた名前だけど、名前は名前だ」

身体を伝わり声が響いてくる。

「嘘でも自分で考えてつければ良かったなんて考えたけど、それって俺の名前じゃねえだろ?やっぱりそれは俺の名前じゃねえ」

「チビナスでもコックでも、ただの魔法使いでも好きなように呼んでかまわねえけど、誰にも呼んでもらえなくても、本当の名前はひとつだけだ」

ずっとそれを聞いていたゾロが口を開いた。

「お前はこれから一生、誰にも本当の名前を呼んでもらえねえのか?」

それは…、言いかけた魔法使いの身体がぴくりと動き、
「ルフィが泣いてる」
小屋の方を見た。確かにかすかな泣き声がする。
緩んだ腕の中で魔法使いは顔を小屋へと向けた。その白い頬に手をあて、ゾロは目元に唇を落とした。
「…なに…?」
「泣いてんのはてめぇだろ?」
「俺?泣いてねえ」
そうか、と目尻を舐めた。魔法使いの纏う気が変わったかと思う間もなく、腕の中で身体が動き腹にするどい衝撃が走り、つぅと腹を押さえてゾロは蹲った。あまりに突然の攻撃に、構える暇もなかった。
「…随分といい蹴り、持ってんじゃねえか…。猫なんかかぶりやがって…」
人の憩いの時間を邪魔してなにいってやがる、と捨て台詞を残して走り去った。





「てめぇは夕べ、あそこであのまま寝たのか?」
朝方戻ってきたゾロに魔法使いは呆れた声をだす。
いつでも、どこでも、どんなところでも寝られるのが自慢だ。さすがに自慢にはならんか、と口にすることはしなかった。



昼前、城に戻るゾロを途中まで見送る。
道の中程まで来ると、
「ここまでで構わねえが、小屋に忘れ物をしちまった。ルフィ、お前取ってこられるか?黒い手拭みてえなモンだ」
大きく二度頷き、ルフィは跳ぶように走り去った。その姿が視界から消えるとゾロは魔法使いを身体ごと引き寄せ、唇を重ねた。
乾いた唇を舐め、下唇を軽く噛んだ。顔を離すと驚いたように眼を見開いた男がいる。
「眼ぐれえ閉じたらどうだ?」
「お、おお…、なっ、なっ、なっ……」
お前は何をする、と言いたいのかは定かでないが、見る見るうちに顔が染まってゆくのをみてゾロは思わず吹き出した。
自分のミゾオチめがけて繰り出された蹴りを避けながら、
「そう何度も食らってたまるか。それはこの前みてえな変な奴にくれてやれよ」
「変なのはてめぇだろうがッ!俺の初めてのキ…、いやいや、男はカウントしなけりゃいいんだな…。そういやクソジジイが言ってたっけ。『お前は可愛いから変な奴に気をつけろって』、それってお前のことだよな?ジジイは予言もできたのか?それにしても信じらんねえええええええ!!!」
ゾロは腹を抱えて笑い出す。
何笑ってやがるッッ!!今度は腕で蹴りを受け止め、
「ちくしょー、笑いすぎて腹が痛てぇ…。続きをしてえとこだが、残念ながら時間がねえ」
「つ、続き?続きって何だあああああ!!!」
勘弁してくれ、マジで腹が痛てえ、となおも笑うゾロに三度、蹴りが放たれた。



そうこうしている内にルフィが戻ってきて、魔法使いの顔を見上げながら、
「コック。顔が赤い。なんで?」
「何でもねえよ…。大人の事情ってヤツだ……」
それを聞いたゾロがまた笑い、眼に涙さえ浮かべているようだ。
別れ間際に、「これをルフィに呑ませとけ」と小さな包みを手渡した。
「何だ?」と問う魔法使いに、「虫下し。お前も呑んでおけ。それ以上痩せたら抱き心地が悪くて仕方ねえ」からかうように言われ、頭の天辺から爪先まで赤くなったコックをルフィはますます不思議そうな顔で見上げた。






村へといたる森の道。
小さな手と腕を振り続けるルフィと、頬を染め、悔しそうな顔をした魔法使いの視界からゾロが消えた。





実りの秋に、厳しい冬。
雪解けの春がきて、再び季節が移り変わってもゾロは姿をみせなかった。








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