眺めのいい部屋 1






様々な方向から吹きつける風を切って、大きな歩幅でゾロが歩く。
街はいつもより磯の匂いが強い。湿った強風は街路樹を大きく揺らし、葉はすっかり裏返って、歩道に木の葉を撒き散らした。
夕刻。早くも店仕舞いをはじめた商店の前を、人々が足早に通り過ぎてゆく。
墨汁を流し込んだ雲は、天に棲みつく生き物のようだ。
不穏な黒く毒々しい息を吐き出して、ざわざわと地上を蔽い尽くていく。

――嵐がくる。



古ぼけた木の階段を8階まで一気に駆け上がると、狭くて暗い、踊り場らしき場所に行きあたった。
その片隅にある扉を開ける。最上階といえば聞こえはいいが、殆ど屋根裏のような作りだ。黒ずんだ木で作られた天井がやけに低く感じる。
エレベーターがないからか、ここの家賃は他よりもかなり安かった。それは上にいくほど格安で、屋根裏ならなおさらだ。
扉の向こうは真っ暗だった。
スイッチを押すと白色灯がぽうっと室内を照らした。ゾロは濡れた上着を無造作に脱ぎ捨て、袋から酒を出して手早く片付けた。部屋の隅に置いてある、小さく古い冷蔵庫。入っているのは数本の酒と黄色いチーズ、そして朝食用の林檎が2個だ。
固いパンを歯で齧って、酒で腹に流し込んで、そのまま風呂場に向かった。
窓のない浴室は狭い。
蓋のない洋式便座と曇った鏡、古めかしい陶器の手洗い、そして真鍮で作られたバスタブが置かれてある。
いずれも古いものばかりだが、風呂が付いているだけ上等な家賃だ。
湯が張り終わるのを待たずに、どっぷりと湯船へ浸かった。
身体がだんだんと温もりに沈んでいく。両手両脚を外に出して、四肢を弛緩させるとホッとする。一日で一番ゆったりとした気分になる瞬間だ。
ガタガタと、部屋の雨戸を風が叩く。
雨風共に今夜がピークかもしれない。吹きつける激しい雨音を聞きながら、ゾロは意識を遠くへ飛ばした。





ドンドン、音がする。
ドンドン、壁を叩く音がする。
ドンドンカンカン、ドンドンドンドン、フランキーがまた壁を直している。
口に数本の釘を咥え、金槌を軽やかに叩いて、休日の朝っぱらから傍迷惑な日曜大工に勤しむのは、この家の主の趣味だ。仕事も趣味も大工で、もうひとつの趣味である下手なギターと同じで煩いことこの上ない。
「…うるさい」
ナミが不機嫌そうな顔で起きてきた。
「…寝てらんねぇ」
ウソップも眠そうに大きな欠伸をして、
「…そうか。今日は日曜か…」
チョッパーの頭はまだ寝ているのか、ぶつぶつ言いながら壁を何度も押している。何かの扉と間違えているようだ。
「屋根をファンキーなロココ調にするんですって」
楽しみだわ。と、ロビンがコーヒーを飲みながら優しく笑った。
「ファンキーな?」
「ロココ調?」
ナミとウソップが顔を付き合わせて不思議そうに呟くと、キッチンからサンジがひょいと顔を覗かせた。
「おっはようナミさん!コーヒーがいい?それとも紅茶がいい?キミに相応しいフレッシュなオレンジジュースもあるよーー!俺の愛のエッセンスもたっぷり入ってるからねーー!」

「余計なものが入ってないオレンジジュースにして」
ナミが眼を擦りながら返事をすると、
「カフェオレにしてくれ。砂糖はなしで。だが賞味期限の切れた牛乳は勘弁だ。俺の腹はデリケートだからな」
「お茶だ。濃くて熱めのがいい。出がらしは許さん」
ウソップと、いつの間にやら起きてきたゾロも返事をした。
「てめぇらにゃ聞いてねぇし。そういう奴に限って、訳のわからん注文が多いのはどうしたわけだろうな」
そしてサンジは水の入ったコップを二人に渡して、
「おーーーーいこら待てサンジ!いまさらだがナミとえらい違いだな!贔屓だ贔屓、えこ贔屓だ!」
「ふざけんな!てめぇは頭だけじゃなく耳も悪いんか!」
「うっせえ!水を出してもらえるだけ有難く思え!てめぇらにサービスするつもりはねぇ!注文も苦情も不可だ!誰が勘弁するか!許さんって、お前何様?ふざけんな!」
大きな怒鳴り声がリビングに響き渡った。
「あれ、ルフィは?」
けたたましい喧騒にチョッパーは眼が覚めたのか、開かない壁を押すのをやめて部屋を見渡した。そこにルフィの姿はない。
ナミが欠伸と共に、大きくのびやかに背を伸ばした。
「まだ寝てるんでしょ?ああなりたいとは思わないけど、あの図太さだけは羨ましいわ」

ルフィは朝餉の匂いがすると元気に起きてくる。朝日よりも明るい笑顔で、
「おはよーーーー!おはよう朝ごはん!」
朝飯に挨拶をする。
騒々しい、いつもと変わらない休日の朝だ。


ドンドン。
ドンドン。
いつまで釘を打っているのか、さすがに五月蝿くなってきた。
ドンドン。
ドンドンドン。
ドンドンドンドンドン。
音が怒っている。
「…あ?」
ゾロは急いでバスタブから出て身体を拭きとった。すっかり寝てしまったらしい。
とりあえず下だけでもと、さっきまで見に着けていたジーンズを穿いて、怒るドアを開けた。





ドアの向こうにはネズミ男がいた。
頭はすっぽりと灰色のフードの中に隠れ、その影から青い目がギラリとゾロを睨んでいる。全身濡れそぼったネズミ男は、口からしゅるしゅるっと毒蛇を吐いた。
「……また風呂場で寝てただろ。居眠りこいてやがったろ。いつもいつも寝てばっかいやがって、俺をどんだけ廊下で待たせれば気が済むんだ!死ね!いっかい溺れ死ね!さあ、ためしに死んでみろ!死んで己のアホさ加減に死ぬほど後悔しやがれ!今死ねすぐ死ねコンチクショー!」
サンジは罵るだけ罵るとフンと鼻息を鳴らして、肩に背負った荷物をドサッと床に降ろした。
「これ」
サンジは中から2通の封書を出してゾロに手渡した。
「ひとつはチョッパーからだ。この前戻ってきた時に渡された。会えなかったから、ゾロが帰ってきたら渡しておいてくれとな。随分前の話だが。もうひとつはロビンちゃんな。間違えんなよ。ロビンちゃんは字がきれいだから間違えようがねぇと思うけど」
またごそごそと中を探って、
「ナミさんが」
ゾロに手渡した。
「この辺一帯の海図と島の地図だ。調べながら作ってくれた。よく読んで頭に叩き込めだと。ふらふらして迷子になるなってさ。いや迷子になってもかまわんが人様に迷惑かけるなといってたな」
これは、と今度は新聞紙に包まれた物を出した。
「干し肉だ。ルフィがこっそり溜め込んでおいたもんらしい。半分涙目で寄こしやがった。そんなに惜しいならくれてやらなきゃいいのに。つうか、腐ってんじゃねぇのか?食えるのか?」
次にきらきら輝く貝殻を取り出した。
「トーンダイヤルだ。フランキーが寂しくなったら聴けとさ。毎晩毎晩、クソうるせぇことしてやがると思ったら…。早くギターが壊れればいいと皆で願ったんだぞ」
その次に取り出したものは、
「ウソップ版電々虫。高性能中の高性能、某国の機密も傍受できるらしい。そんなの聞いてどうすんだって話はともかくとして。お前、ウソップが何でこんなの作ったかわかるか?」
電々虫。にょきっと突出た目玉。おしゃべりそうに突出た唇をゾロが珍しそうに引っ張ると、
「いいや」
電々虫が嫌嫌しながら顔を顰め、
「てめぇと全然連絡がとれねぇからだ。電話もなけりゃ手紙もねぇ。もちろん一回も帰ってきやがらねぇ。ロビンちゃんがいくら手紙を送っても、とんとさっぱり返事もきやがらねぇ」
そしてサンジが怒鳴った。
「生きてんのか死んでんのかわからねぇって、ロビンちゃんやフランキーや、その他もろもろ、しかもナミさんまでちょっとだけ心配したんだぞ!ロビンちゃんやナミさんが小さな胸を、いやたわわな胸を痛めたんだ!わかってんのかこのヤロー!羨ましくて憎いわクソッタレ!俺も心配されてぇ!じゃなくて、てめぇは皆の愛を思い知るがいい!」
そう怒鳴るとまたバッグを持ち上げて、大きく反動をつけたかと思うと、そのままゾロの顔面に叩きつけた。
「―――――っ!」
顔を押さえてゾロが呻る。
指の間から、つつつと鼻血がこぼれて、
「…いっ、いでぇじゃねぇかチクショーーー!このアホ毛が……、殴るこたァねぇだろっ!ぶち殺すぞ!」
ゾロがサンジを怒鳴りつけた。

「大袈裟じゃねぇの?そんなに痛くねぇだろうが。今まで愛が詰まってたけど荷物出した後だしさ。そんなカラ同然ので叩かれたって…」
サンジがバッグの中を覗くと、顔を上げてニッと笑った。
「そういや俺のが残ってた。来る途中に港で買いだししたんだっけ。嵐が来てるからかあんま置いてなかったけど、たまたま海獣の肉が売れ残ってたもんで買っておいたんだった。何か適当に作ってやるから」
その手にあるのは、いかにもずしっとした重そうな包みだ。
「……それの所為か。サンドバッグでぶっ叩かれたかと思った」
包みとサンジを交互に睨みつけて、ゾロが文句をいう。
「てめぇのが一番痛てぇ」
「だが俺のは愛じゃねぇし。勘違いすんなよ?」
サンジがアハハとかろやかに笑った。





「ずぶ濡れになっちまった。おい。風呂はどこだ?」
サンジは部屋の隅に荷物を片付けると、コートを脱いで椅子に掛けた。
「泊まるつもりか?」
「こんな嵐の中に放り出すつもりか?」

据付のクローゼットも古くて、まるで骨董品だ。
よくよく見れば粗大ゴミのようでもあるが、その中からゾロは自分のシャツとタオルを出した。
「パンツは?」
「大丈夫だ」



水音が部屋に響く。
シャワーの音と、雨戸を叩く激しい雨の音だ。
夜が更けるにつれて、ますます雨風が強まった。風はガタガタと木枠を揺さぶり、一番上の階に位置するからか、雨が屋根を叩く音まで聞こえる。
ゾロはサンジから受け取った手紙を開いた。
質素な白い封筒、何の飾り気もない手紙は丁寧に封がされてあった。注意して開けたつもりだったけど、手紙の端が少し破れてしまった。
細いペンで、いかにもロビンらしいクッキリとした読みやすい字で、近況のことなどが2枚に渡って書かれてある。
今までどんな手紙を送ってきたのか、読んでないゾロはわからない。
このアパートメントの1階に郵便受けらしきものがある。ここに来てから一度も開けたことはないが、今度確認した方がいいかもしれないと考えた。
もうひとつの封筒は、ぷっくりと膨らんだ茶封筒だ。
まさか全部手紙かと、うんざりする思いで開けてみたら、中からころりと平べったい円錐状の容器が出てきた。
手紙はレポート用紙らしきものが1枚だけだった。チョッパーらしいといえば、いかにもこれはチョッパーの手紙だと、封筒の中から漂う薬の匂いをゾロは胸に吸い込んだ。




嵐は弱まる気配がない。
雨風がまるで殴るように建物を叩き、時折電灯がチカチカする。
手紙にざっと眼を通すと、それを待ってましたといわんばかりに、いきなり部屋の灯りが消えた。
おそらく停電だ。
廊下を覗いてみたら、真っ暗で何も見えなかった。
風呂場から何やら悲鳴じみた声が聞こえてきた。
「ギャッ」と、小さな叫び声と物がぶつかる音、「イデッ!」と悲痛な声となにやら物が壊れる音と水音。
サンジにとって、此処は勝手しらない初めての場所だ。ゾロは風呂場に向かって声をかけた。
「おい大丈夫か。出口はこっちだ」




部屋は真の闇に包まれている。
一寸先どころか、まったく何も見えない状態だ。暗すぎて自分の位置すらわからなくなる。
扉の開く音と共に、部屋の空気が僅かに動いた。
サンジは風呂場の入口で立ったまま、そこを動こうとしなかった。下手に動いて痛い思いをしたからか、またはあまりにも暗すぎて動けないのか。

「停電か?」
「のようだ」

この辺り一帯停電している可能性が高い。
比較的大きな港町だからこの街は夜でも明るいが、今はどっぷりとした闇に沈んでいる。古い雨戸の隙間から、いかなる灯りも部屋に漏れてこなかった。

「俺はここだ。わかるか」
ゾロが声にしてサンジを誘導した。
「途中に小さいテーブルと椅子がある。他には何もねぇ」
チッ。小さく舌打ちするのが聞こえ、その気配が動いてすぐに大きな物音がした。
「イッデーーーーーッ!」
どうやらサンジが転倒したらしい。
「テーブルがあるといっただろうが。バカか」
「違う!テーブルじゃねぇ!誰だ、こんなとこに荷物を置きやがったバカは!」
さっきサンジが自分で置いた荷物だ。
「ないとは思うが、蝋燭とかねぇよな?」
「ねぇ」
「万が一にもありえねぇけどさ、もしや懐中電灯とかあったりする?」
「もちろん」
あるはずがなかった。
「冷蔵庫開けっぱにすれば明るくなんじゃねぇか、ってそういや停電してたんだっけ」
ゆっくりと、少しづつ声と気配がゾロに近づいていく。
真っ暗な闇。
その中を手探りで、声と気配のする方向へとサンジは歩く。
前方に腕を伸ばして、何も見えない闇を泳いでいると、ふいにその腕が掴まれた。握られたのは手首だ。
サンジの心臓が大きく跳ねた。
「こっちに寝床がある。狭いから暴れんじゃねぇぞ」




強風と大粒の雨が建物を激しく打ちつけた。
雨戸をガタガタ揺らして、風は掠れた声でヒューヒュー悲鳴を上げている。
「嵐は苦手か?」
闇に低い声が響いた。
「何でそんなことを聞く?」
「風が強く吹くと」
ゾロはゆっくりとした口調だ。
「脈が速くなる」
サンジは自ら腕を捻り、握られたままの手首を、その手を振り解いてゾロに背を向けた。
それでなくても狭いシングルベッドに男が二人。正面だといろいろな意味でさすがにキツイ。

「…俺がガキん頃」
サンジが低い声でぼそぼそ話し始めた。
「チビで、何歳とか全然わかんねぇけど、俺は船に乗ってた」
強い風が雨戸と窓ガラスを打つ。
「そしたらいきなり船が揺れて、周りが真っ暗になって」
大きな雨粒がバシバシと煩いくらいに部屋に響く。
「甲板に出るとすげぇ風と雨で、空も海も荒れ狂っていた」
遠くでサイレンが鳴っている。
「怖くて不安でどうしようもなくなって、それから何がどうなったのか覚えてねぇけど」
だが、その音も風に掻き消されて聞こえなくなってしまった。
「誰かが俺を海に突き飛ばした」
風が鳴く。唸る風音はまるでサイレンのようだ。
「自分を突き飛ばした腕に、必死で手を伸ばしたけど届かなくて、そのまま海に落ちた」
そこで何故かサンジは小さく溜息のような息を吐き出した。
「海に落ちたらすぐに誰かに拾われた気がする。あまり良く覚えてねぇ。しょうもねぇほどガキだったしな。だけど、落ちたのは海じゃないかもしんねぇって後から気づいた。なんとなくだが、ボートだったような。ずぶ濡れだったから海に落ちたと勘違いしたんかも」
そして、またひとつ大きく息を吐き出した。
「あれって…、あれってのは俺を突き飛ばした奴だけど、俺の母親か父親だったんじゃねぇかと。確信はねぇが。これも確信はねぇけど、突き飛ばしたのは助けてくれる為だったんじゃねぇかってな。でも全部想像だ。だったらいいと、勝手な考えかもしんねぇが、事実なんか誰も知らねぇんだから好きに思わせとけってな」
ゾロが背後から腕を伸ばして、またサンジの手首を握った。
「あんま確かでない記憶だが、それでもずっと嵐が怖かった。夜も不安だった。だがガキだったからだ。今じゃなんてこたァねぇ。だがたまに脈が速くなっちまうとしたらその後遺症だ」
すると、ゾロがフンとひとつ鼻を鳴らした。
「おい。嘘じゃねぇぞ」
「誰もそんなこといってねぇ」
「そういや昔てめぇのベッドに潜り込んだことがあったけど、ありゃただ寝惚けてただけだから。勘違いすんな」
すると、またゾロが鼻を鳴らした。
「…嘘じゃねぇってば」
「だから何もいってねぇって」
後ろから耳にかかる息がくすぐったくて、サンジは小さく身体を揺すった。前にもこんなことがあった気がする。ゾロが出発する直前、ちょうど10ヶ月前の話だ。
「そういや、前にもこんなことがあったな。どうでもいいが後ろから噛みつくんじゃねぇぞ。いつも好き勝手しやがって」
すると、後ろ首に温かい息が吹きかかった。
「悪ぃ」
闇の中で空気が震えた。静かに、喉を殺してゾロが笑う。
「無理だ」
シャツの後ろ襟が、乱暴に指先で引っ張られた。曝け出された肩の、ちょうど首の付け根部分に硬いものが触れ、それが歯であるとサンジが気づくと同時に、その肉を噛み締めるように顎に力が入ったのを感じた。
身体が震える。
突然の痛みに、息が止まった。





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2009/10.16