いぬ の はなし。 8









俺が3歳の頃、かあちゃんはねえちゃんを連れて家を出た。あまりその頃の記憶はない。
小学3年の時、俺はこの町を出た。とうちゃんと一緒にだ。
そしてまたこの町に戻る時、ウソップが泣いた。別れを悲しんで泣いてくれた。
中学の頃に隣の爺さんが故郷に戻り、ヤツはひとりここに残った。
たぶんイヌの為に。
連れて行けないほど遠い地だ。はるか海の向こう、言葉も、たぶん習慣もまるで違う、想像もつかないほどの遠い国。

去るほうと去られる方、どちらが悲しいだろう。
二人に家を出て行かれ、親父はどう思っただろうか。
子供のいないこの町内で、俺がいなくなってヤツは誰と遊んだのか?
ウソップは泣いていた。
爺さんが故郷に帰った朝、白い靄の中に立っていた影を思い出す。
親父が単身赴任をしたときにはヤツがいた。親父に頼まれたと、昔と同じように。



イヌが逝った。








深夜、ドアを叩く音が闇に響く。
しばらくして玄関に灯りがつくと同時にドアが開けられ、仏頂面をした寝起きで機嫌の悪そうなヤツが立っていた。

「何だ?」

低いその声も、寝ているところを起こされた所為か、かなり不機嫌そうだ。玄関の薄明かりに照らされ、板の間に立つヤツの元へと近づいた。

「何で泣かなかった?」
「あ?」
「このまま何処かにいっちまうつもりか?」
「なに…」
ヤツの胸倉を掴み、問い詰めた。
「だったら泣けよ!イヌが死んで、本当はホッとしたんじゃねぇのか!」

蹴りが飛んできた。脇腹に食らったそれは、重く、鈍く腹に響く。
「…っ。返事がこれか?」
「夜中に人んち来て、なに寝惚けたことを言ってやがる…」
なんだ?怖い夢でも見たのか、マリモちゃん、と憎憎しげに言う男の腹に拳を叩き込んだ。前のめりになった身体を床へ押し倒す。

「…っつ…てぇ…。痛てぇだろうが、この馬鹿ッ!」

罵声を浴びせるヤツに乗りかかり、その胸に頭を強く押し付けた。感情を言葉にするのは昔から苦手だった。なかなか適切な言葉が見つからない。
最初に蹴りを入れたのはヤツだが、それに拳でしか返せない俺の語彙は確かに少ないのだ。

「…なんだ?何かあったんか?」
「…イヌが死んだだろ?」
「ホントに怖い夢でもみたんかよ?」
「お前が此処にいる必要がなくなったんじゃないのか?」
「イヌがいなくなったから、俺が此処を出て行くと?」


いくら地元ととはいっても、大学だって此処からそう近いとはいえない。いくら親父に俺のことを頼まれたからといって、親戚でもないのにそこまでの義理はないだろう。
此処は何もない町だ。出て行く人間はいても、入ってくる人間は少ない。今でも子供が少なくて、たぶんこの町内には小学生はひとりもいないはずだ。
イヌも爺さんもいないこの町に、この男が留まる理由が見つからない。
六角形のこの家だって、見てくれは殆ど空き家か幽霊屋敷だ。


「てめぇは小学校ん時、此処を出て行っただろうが?忘れたのか?大きい街だったんだろ?自分は良くても他人は駄目か?親父が単身赴任でいなくなって、俺までいなくなったら飯の支度とか、面倒見てくれるヤツがいなくなるから不便になるか?」

声が、耳と、胸の両方から響いてくる。どんな顔でヤツが話しているかはわからない。俺も顔を上げられないままだ。

「お前が言ってるのは、そういうことだ」、それきり口を閉ざした。心臓の音と、息遣いが胸から聞こえてくる。

「出てくつもりか?」

その胸に直接問いかけたが返事はもらえなかった。
それは肯定の意味より、俺の言い分が気に入らなかったのだと思う。この男は頑固な上に天邪鬼だから、へそを曲げると本当のことは決して言わない。
だから俺が口にしなければならなくなる。

「…俺じゃ駄目か?俺じゃイヌの代わりなれねぇか?」

俺がイヌの代わりになってもいい。
だから出て行くなと。
それでこの男を此処に引き止めて置けるのなら、それならそれで構わない。プライドがないと思われてもいい。
それよりも失うのが俺は怖かった。この場所に、一人残されるが嫌だった。それは親父が単身赴任をするといった時には気づかなかった感情だ。

「お前が?イヌに?」

そう言った後、爆発したように笑った。
ゲラゲラと、胸を震わせながらいつまでも大きく笑う声が響いてくる。いつしか小さくなった笑い声が止んだ後、「帰れ」と、ひとことだけ言われた。
眼の辺りを両腕で覆い、床に横たわる男の顔は、笑い顔より泣き顔に近かった。








その1週間後、ヤツが小さな小箱を俺に見せた。
中には小さな装飾品。ふたつの、金色のピアス。
掌に乗せて、

「お前につけさせてろよ」

俺に差し出した。思わず怪訝そうな顔をすると、「何だ、不満か?やっぱり首輪の方がいいか?」、端からイヌ扱いだ。

氷で部位を冷やされ、耳がじんじんと痺れたように痛い。消毒液のにおいがやけに鼻につく。
「てめぇの耳だし、フツーの針で充分かと思ったんだけどよ、店員が薦めるからさ」
ニードルという針を取り出し、まだ痺れる耳になんの躊躇いもなく針を突き刺した。たいした痛みではないが、
「あ、曲がっちまった」
軽く言われて、かなりむかついた。「まぁ、細けぇことは気にすんな」、自分勝手なことを言いつつ、「とりあえず、開けちまったもんは仕方ねぇ」と、大雑把にひとつ目のピアスをつけた。
そして、やり直すようにもうひとつの穴を、その少し上に刺した。
「あれ?」
とぼけた声でヤツが呟く。
何が「あれ?」なのか少し気になるが、また失敗したのは間違いないようだ。簡単氷麻酔が切れてきたのか、1つめよりちょっとだけ痛かった。ともかく、今は我慢するしかない。

「結構、似合うもんだな」
耳元に響く低い声が鼓膜をぴりぴりと刺激して、少しヤニ臭い暖かい息が頬にかかる。
2つ目のピアスが取り付けられたあと、承諾も得ずにいきなり3つ目を突き刺した。
「お、今度はきれいに開けられたぜ。付け替えるか?」
最初に開けた2つが納得いかなかったのだろう。試すように、もうひとつの穴を開けた。
鏡を見せられて、それを確認した。左耳についた2つのピアス。
かなりヘンな感じだ。3つ目がぽつんと血を滲ませたままで放って置かれている。何もつけられていない小さな穴は、ただの傷口でしかない。だから俺にとって、それがきれいかどうかなんてことは問題ではないのだ。

返事はヤツの腹に拳で返した。
呻きながら横に倒れかけた身体を抱き寄せ、反動で仰け反った喉に唇を落とした。

「…おい。噛み切るなよな」
「そうされたくなけりゃ、暴れんじゃねえぞ。人の身体に3つも穴なんか開けやがって」
ヤツが笑う。白い喉を震わせながら。その振動を楽しむように舌と唇を這わせた。
「意外とさ、興奮するもんだな。初めて知った」
片方だけでも似合うと言いながら、傷口に触れないようそっと指先で俺の耳をくすぐった。あの時イヌを撫でていた長い指が自分に触れるのは、ぞくぞくと背中が粟立つような快感だ。
消毒液の匂いのする指を口に含んで、そのまま前に重心をかけていった。





俺はいつか考えなければならない。
ヤツに対する感情と、唇に触れる肌に快感を覚える意味と、何故この男が俺を受け入れるのかを。










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