いぬ の はなし。 7









「イヌがよ、なんか具合悪そうでさ」
「ヤツも年だからな。風邪でもひいたんじゃねぇのか?」
「人間の風邪薬、小さくして飲ませちゃまずいと思うか?」
「さあ?」


昨晩、夕飯時の会話だ。
翌日土曜日の朝、体を起こそうとしてもイヌは歩けなくなっていた。腰が抜けたように下半身がうまく動かなくて、弱々しげに俺達を見上げるだけだ。
朝一で、ヤツが動物病院で診てもらうと、イヌを連れて車で出かけた。実を言えば、俺はそんなに深刻に考えてはいなかった。
イヌも13歳だ。もう老犬の域に入っているからか、人間と同じでだいぶ耳が遠くなっていたし、ここ最近では呼んでも「どっこらしょ」といった感じで腰を上げる始末だ。いろんな動作もかなり鈍い。昨夜交わした会話じゃないが、老犬ゆえ風邪でもひいたのだろうと。


昼前に車が戻ってきて、そのまま隣へ行って声をかけた。

「どうだった?」
「なんかの薬物中毒だと。肝機能の数値がありえないくらい高いそうだ」
「入院しなくて大丈夫なのか?」
「頼んだんだけどな、連れて帰ってやれとさ」
イヌを抱き上げ、樹の下の涼しいところへ、その体を置いた。
これだけ具合が悪くても、連れて帰れと医者はいう。俺はその意味を深く考えなかった。入院しなくても大丈夫な程度、そのくらいにしか考えてはいなかった。
いつもうるさいくらい吼えていたから、誰かに毒でも盛られたのかもしれない、ふとそんなことを思う。
簡単に二人で昼飯を食って、それの後片付けをする前に、ヤツはイヌの様子を見に外に出て行った。
なかなか戻ってこないのを不思議に思い、俺も外へ出ると、照りつける日差しの中で、草ボウボウの庭にヤツがしゃがみこんでいるのが見えた。白いシャツがやけに眩しく見える。
その足元にイヌがいた。
手足をピンと伸ばしたまま、草の中に横たわっていた。

「逝っちまったのか?」
「そうらしい…」

こんな暑い日なのに、イヌは寒かったのだろうか。
涼しい樹の下から這い出て、暖かい場所を求めるように庭の真ん中で、ひっそりと息絶えていた。
イヌの廻りには大きな銀蝿が数匹飛んでいた。卵を産みつけようと、しきりにあたりを飛び回る。

「どこか火葬してくれるとこを探してみるから。お前、コイツにシートでもかぶせてやってくんねぇ?」
「ああ、それと氷でも買ってくる」

黄色い電話帳で動物の火葬場を探し、いっぱいの氷で体の腐敗を抑え、シートをかけて蝿から守った。
それからはいずれも、全てが初めての経験だった。
犬用の棺桶、ペットの火葬、係員も黒い服を身にまとっていて、まるで人間の葬式のようだ。
火葬場に二人で同行すると待合室で少し待たされた後、最後のお別れをした。


白い布に包まれ、棺桶に眠るイヌの口に、流れ出た血が固まっているのが見えた。毒物による出血か、少し黒く変色した血が白い毛と白い布を汚していた。
いつものように頭を撫でても、それはまるで剥製のようによそよそしい。ふかふかだった仔犬の頃に比べると、随分と固くなった白い毛だけがイヌのもので、中身の固くて冷たいものは別物だ。
イヌの死を悲しむ気持ちがなかった訳ではないが、俺の眼は別なものを捉えていた。

やさしくイヌを撫でる、骨ばった長い指先とか
両脇に立つ喪服の黒。間に挟まれ、眩しいくらいの白いシャツ。その後ろ姿。
金色の頭が少しうな垂れてるさまを、俺は見ていた。そして思う。



泣けばいいのに。
泣かれると実際は困るかもしれないが、それでも泣けばいい。
たぶん俺の前では泣かないだろうと思いながら。
でも、何故か泣く顔が見たかった。



外に出てみると、小さな煙突からは透明の煙。揺らめきながら天に昇っていく。
小さくなって桐の箱に入ったイヌを、車に乗せて連れ帰った。





その晩、初めて二人で外食した。
郊外にある普通のファミレスだ。どれでもいいと思ってはいたが、俺にメニューを見せることなく勝手にヤツが注文してしまった。
昔は旨いと思って食っていたものが、久々に食べたらあまり旨く感じない。おそらくあんなことがあったからだと思う。その時交わした会話は、取り留めのないものだった。
あそこの霊園というか、火葬場の待合室に飾られていた数々の写真。
さまざまな犬、猫、ハムスター、鳥、あげくに金魚までいたのには驚いた。
「ピーちゃん、楽しい思い出をありがとう」、これは鳥だ。
「ハムちゃん(そのまんまではないか)、どうかやすらかに」、もちろん、ハムスター。

「お前も写真でも持ってきて書けばよかったのに。『イヌちゃん。いままでありがとう』とかよ」
「う…、それ、すげえ、やだ…」
「じゃあ、これは?『イヌちゃん。たくさ…』」
「アホかっ!メッセージの内容じゃねぇっ!それをすること自体、嫌だって言ってんだろ!」
「イヌのことを可愛がってたのはホントだろうが?」
「イヌだけじゃねえぜ。俺は世界中のレディを可愛がってる」
「でも、イヌが一番だっただろ?」
「しつけえ。拗ねてんのか?可愛くもねぇ。てめぇのこともガキの頃から可愛がってただろ?」
「アレがか?苛めてたの間違いじゃねえのか?」
「俺の愛がわからねぇとは…。ガキにゃ大人の愛は通じねぇのか?」
「そんなのわかってたまるか!なにが大人だ!だいたい、その頃はてめぇだってガキだったろ!」

でも、やはりイヌが一番だったのを俺は知っている。そのイヌが死んで、何故コイツは泣かないのか?





その夜、布団の中でイヌのことを思い出した。
2人と1匹で川遊びをしたことや、樹に登ったことや自転車をこいで走り回ったこと。ロクに思い出したこともない子供時代のことだ。
いつも上ばかり見ていて、先に進むことばかり考えて、今まで後ろを振り返ったことがない。
その時、突然に俺は思い出した。
その気持ちをうまく表現することができないが、居てもたってもいられず、夜中に布団から飛び起きた。

だからヤツは泣かないのか?

今は靴を履くことすらもどかしくて。
言葉よりも、感情よりも先に身体が動いてしまうものを、一体どう我慢すればよいのだろうか。





深夜、静まった隣の玄関を、あらん限りの力で俺は叩く。










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