いぬ の はなし。 6









4月。志望校へ進学することができた。
駅まで自転車をこいで、電車に乗って7つ目で降りて、そこからバスで15分。少し遠いが自分で選んだ高校なので不満はない。
ローカル線だから本数は少ないし、乗り換え乗り継ぎにも時間がかかるが、それも仕方ないだろう。
隣の男も地元の大学に進学したようだ。爺さんの車で大学に通学している。
俺は朝が早くて帰りが遅くなった。部活の所為もあるが、半分は電車で寝過ごしてしまうからだ。あの揺れはよくない、あのリズムが睡魔を誘う。ゴトンゴトンと揺られるたびに、次第に気が遠くなって困る。





高校1年の9月のことだ。
親父にまた転勤の話が持ち上がった。正確には出向で、今度は遠く離れた北の地だ。一度動いてしまうと、転がるように話が持ち上がるらしい。
話を聞きながら、握りこんだ指先に力が入ってしまうのを俺は止められない。口を開くとどんな言葉が出るか解からず、俯いて拳を握りこんでいると、
「とうさんは一人で行っても大丈夫だから、お前は気にするな。せっかく希望して入った高校だ、やめる必要はない」
何も言わない俺に向って、静かに口を開いた。
単身赴任をするという。緊張が解きほぐされ、そっと手を開くと掌が白くなっていた。
「それとも、かあさんのところへ行くか?」
「…近くに住んでんのか?」
かなり驚いた。ほとんど思い出しもしなかったが、もちろん完全に忘れてた訳じゃない。今ここで、『母親』という選択肢を持ち出されたことに驚いて、
「ねえちゃんは?かあちゃんと一緒なんだろ?」
親父に続けざまに尋ねた。3歳年上だと聞いたことがある。あの男と同い年の、殆ど記憶にない姉だが会ってみたかった。たった一人だけの自分の姉弟に。
だけど俺がその名前を口にしたら親父の顔が少し歪んだ。うまく言えないが、雨が降りそうな顔で、
「子供の頃に事故で死んだそうだ。苦しまないで良かったと言っていたが…」
だが口調は淡々としたものだ。
かあちゃんから連絡がこなかったので、親父は自分の子供の葬儀にも出席できなかった。
それを聞いた俺は、悲しみよりも驚きの方が大きくて。
「音信不通だったんじゃねぇのか?誰かから聞いたのかよ?」
「あれの子供はもうお前だけだ。最初に転勤する少し前、お前が小3の時か、あの時、『お前に会いたい』と向こうから連絡してきたよ。それで転勤の話を受けた」
俺を連れて、逃げるように他の町にいった、それが真相だったらしい。親父は優しい男だが、幾分気が小さい。
「お前を取られるような気がしてたんだろうな」、力なく笑って、立ち上がりながら向けられた背に、「ここにいる。何処にもいかねぇよ」、返事をすると、俺に背を向けたままぽつりといった。
「お前はとうさんより早く死ぬんじゃないぞ」

大人には大人の事情があるのは解かっている。
だが、その話を聞いて、葬式にも呼んでもらえなかった親父が気の毒に思えた。





9月、最後の日曜日。身の回りの簡単な荷物と共に、ひとり親父が北に向かう。
「駅まで見送るから」と言うと、「いや、ここでいい」、笑いながら首を左右に振った。どうやら見送りは照れくさいらしい。
「体の具合が悪くなったらすぐに医者に行け」、「無理はするな」、「無茶もするな」
そんな親父の言葉にふと、隣の爺さんが故郷へ帰った時のことを思い出した。あの時、白い朝靄の中で、二人が交わした会話もこんな感じだったのだろうか。
駅に向かって歩き出した背中に、

「おじさん、元気でな!」

俺の背後にある垣根から大きな声がかかり、その声に親父が振り向いて、

「ああ、頼むよ!」

笑った。
後姿が見えなくなると、
「あァあ…いっちまったな」
ぼそりといった後、俺に視線を向けた。
「今日から俺がまた、飯を作ってやっからさ。夕飯はちゃんと食いにこいよな」
話が見えなくて、返事がなかなかできないでいると、
「マリモちゃん?」
可愛い仕草で首を傾げるのが、妙にこ憎たらしい。だが、すぐに口調が元に戻った。
「聞こえてんのかよ、マリモ。返事くれぇしろよ!シカトこいてんじゃねえぞっ!」
「聞こえてるよ、馬鹿。耳元で怒鳴るな」
「馬鹿はお前だ、馬鹿。出来の悪い子供だとさ、いや、出来が悪いから尚更だからか?愛されてんねぇ、てめぇはよ」
「どういう意味だ?」
「そういう意味だろ?マリモちゃん?」
ようするに、親父はこの男に俺のことを頼んだ。事前にそれを言わなかったのは、言えば俺が拒否するからだろう。
「『ちゃん』はやめろ。ぐるぐる」
「ぐるぐるはやめろ、へなちょこ野郎。大体、有難い親の愛を断るなんざ、てめぇは犬畜生以下だ」
イヌ以下だ、というその顔は、やはり憎々しい。
「いっぱい食わせて、俺が大きくしてや…っか………ら?ららら?お前、背ぇ伸びた?」
「当たり前だ!ずっとチビでいられっか!」
「いや、これまた、いきなり伸びたもんだな…。だが、俺より大きくならなくていいからな。もう、そこらへんにしとけ」
もう十分だろう。それ以上伸びるなと、どこから持ち出したのか俺の頭にザルをかぶせた。この地方ではザルをかぶると背が伸びなくなるといった迷信がある。
せっかく伸びだしたのにここで止まってたまるか、とザルを毟り取り、久々に喧嘩をしたら、これが意外と楽しかった。
繰り出した攻撃を次から次へと受け止められ、ヤツの攻撃もすべてかわす。体格差が少なくなって、この男とそんな風にやりあえる日がきたのが俺は嬉しい。

それから少しだけ生活が変化した。
朝起きて、隣に行って朝ごはんを食べ、弁当を渡されて学校へ行く。部活をして家に帰ると、ヤツが来ていて一緒に晩御飯を食べる。
TVを見て、つまらないことに二人で笑って喧嘩して、たまにイヌと散歩に出かけたり、そうやって日々が過ぎてゆく。
腹に溜まっていたわだかまりがいつの間にか薄くなり、そしてヤツから受ける実益を俺は優先した。





2年になって、初めて女と寝た。
合コンで一緒になった女だ。童貞をきった感想は、
こんなもんか。まあ、そうなんだろう。
可でもなく、不可でもなく、今となっては顔も名前も思い出せないが、そう悪い思い出ではなかったのは確かだ。
その後、数人の女と寝たが、いずれも同じようだ。気持ちいいが、後が面倒。これが正直な感想だ。
頻繁にあるメールのやり取りが非常に面倒。探りを入れるような女の言葉の数々が煩わしい。大人になって金が自由に使えるようになったら、それの処理はそういった店でしようと考えた。





今までで一番楽しかったのが高校時代だ。
剣道では全国大会に出場して準優勝だった。特定の女はいなくても友達ができたし、家に帰ればヤツもいて、ワンワンうるさいイヌもいる。
面と向かって口にしたことはないが、ヤツの飯は旨い。あの爺さんの孫だけあって、プロ顔負けの腕だ。いつの間にここまで腕を上げたのだろうか。昔は野菜が全部繋がっていたくせに。
正月。親父が遠い北の地から帰ってきて、ヤツがおせち料理をつくり、誰も見ていないTVBGM。ヤツのつまらない話に笑う親父の目じりに皴が増えたと、コタツでうとうとまどろみながら、ぼんやりと眺めた。
庭ではイヌが吠えている。
「入れろ、混ぜろ」と俺達を呼んでいる。





ある日、些細なことでヤツと喧嘩した。
思い出すのも馬鹿らしいが、一緒にゲームをしていて負けそうになったヤツは腹立ち紛れにコントローラで俺の頭を叩いた。ここらへんは昔から性格が全然変わらない。非常にジコチュウ、乱暴で短気で、あの爺さんの遺伝子はちゃんと孫に受け継がれている。
だが今は殴られっぱなしの子供じゃない。強烈な蹴りを3発食らったが、ヤツの身体に拳が4発入って、最後、鳩尾にきれいにストレートが決まって身体が蹲ったところを床に叩きつけ、その身体に乗り上げた。
予想外の展開に驚いたのか、眼がまんまるに見開かれて、そんな表情が年上なのにひどく子供っぽく見える。

「俺の勝ちだろ?」
まだ状況が呑み込めてないのか、返事がない身体に圧し掛かったまま、
「おい、聞こえてんのかよ?」
上からヤツを見下ろした。すると、見る見るうちに怒りで顔が赤くなり、
「…いつまで乗ってるつもりだ…。重いだろ、いいから降りろ!この筋肉ダルマ!誰のお陰でここまでデカクなれたと思ってんだ!この恩知らず!どけ、どけ、どけ、どきやがれッ!早く下りろおおおッ!」

ギャーギャー喚きたてた。俺がここまで大きくなったのは、さも自分の飯のお陰だと言いたいようだが、それだけじゃないはずだ。年中部活で汗を流してる現役の高校生に、いつもふらふら女と遊んでるお前がかなうわけない。言ってやってもよかったが、それよりも別なことに眼を奪われていた。

とてもいい眺めだ。降りるのが勿体無いくらいの絶景だ。この凶暴で傲慢で、我儘な男を自分の下に組み敷くのはとても気分がいい。





子供の頃からずっと上ばかり見上げてカリカリしていた俺だが、ここ最近は自分でもわかるくらい落ち着いていた。身長も伸びて、ようやくヤツを追い越すまでに至った。わずか1センチ差ではあったが。

あの時、ヤツにザルをかぶせられなかったら、もう少しは伸びたんじゃないかと思う。
できればもう少しだけ身長が欲しかった。
常にあの男を見下ろせるくらいの身長が。





高校3年の6月。
まるで真夏のように暑い日のことだった。前日から具合の悪そうだったイヌが、その日、腰が抜けたように立てなくなった。










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