いぬ の はなし。 5








家に着くなり、隣からイヌが顔を覗かせワンワン吼えた。千切れんばかりに尻尾をぶりぶり振って、襲い掛かるように飛びつく。どうやら俺を覚えていたようだ。

「おい。元気だったか?」
声をかけると、
「おう!俺は元気だぜ!お前も元気そうだな!」、そんな感じで吼えっぱなしだ。正直、少しうるさい。
これだけイヌが吼えても隣の家から誰も出てこないのは不在だからだろう。頭を数回撫でて、すぐに家に入ろうとしたが「もっと撫でれ」と、イヌがなかなか離してくれなくて困った。
イヌを宥めてようやく家に入ると、3年以上もの歳月が経っていたにもかかわらず、部屋の空気は澄んできれいだ。全然埃臭くなくて、
「誰も住んでないからか?意外ときれいなもんなんだな」
「家ってのは、誰か住んでないとダメになってしまう。お隣には合鍵を渡して置いたから、ここまで保たれてるんだろ。きっと掃除をしてくれてたんだな」
そう言いながら、親父も部屋を見渡した。
今回戻るということは伝えてなかったから、定期的に掃除をしてくれていたことになる。
あの爺さんがするとは思えないから、たぶんあの男がしてくれたのかもしれない。
その日は荷物をとりあえず置き、店屋物で食事を済ませて、夜になって親父がお隣に挨拶に行ったがまだ不在だったようだ。

その晩、「お前も中学生だから」、と俺は部屋をもらった。
初めての一人部屋だ。今まではずっと親父と一緒で少し窮屈だったが、自分だけの場所を与えられて嬉しかった。
だけどその夜、久しぶりのその場所に馴染めなかった所為か、引越しの疲れからか、天井がやけに高く、部屋が異様に広いような気がして気分が落ち着かない。ひとりだけの誰も居ない部屋が少し怖くて、股間をぎゅっと握り、そのままそのぬくもりと共に眠りについた。





翌日は朝から親父と家の片づけだ。不要な物を庭先に出していると、

「おいっ!マリモ!」

マリモ、マリモ、マリモといきなり連発され、嫌な予感に振り返ると、あの男が立っていた。
「久しぶりじゃねえかァ!何だ、いつ帰ってきたんだよ!」
お日様に金色の頭がきらきらまぶしくて、思わず眼を細めた。
「懐かしいなァ、おい。しばらく見ねえうちに、随分と大きくな…った…か?」
最後に疑問符をつけられた。初っ端から一番言われたくないことを言われ、しかもむかつことに顔が笑ってる。
「俺の身長には将来性があんだよっ!」
本当に腹が立つことに、まだ頭ひとつくらいの身長差があった。だから何を言っても負け犬の遠吠えのようでしかない。
「将来性ぇ?てめぇ、マリモのくせに生意気な言葉を覚えやがって」
だが顔はへらへらと笑ったままで、ぐるぐる巻いたヘンな眉毛まで妙に腹立たしい。
挨拶代わりに顔面に送った拳はひらりとかわされ、鳩尾めがけた拳は膝で軽々と受け止められた。何故この男はこんなに強いのだろう。あの爺さん相手にバトルでも繰り広げているのだろうか。3歳という年齢差と、不本意ながらの身長差も原因かもしれないが、攻撃をすべてかわされたことに俺は愕然とした
「おいおい。えらくいいパンチを出せるようになったじゃねぇか?」
褒められている気がしない。余裕でかわされ、鼻で笑われたような気がして、俺はヤツから背を向けた。生まれて初めてのことだ。
昔は違った。蹴られても殴られても正面から立ち向かったし、あの剣道場では同じ小学生の誰にも負けたことがない。喧嘩でも、剣道でもだ。
思わず背を向けたことは屈辱以外何者でもないが、何故そうしてしまったのかは自分の行動なのに理解できなかった。その背中にヤツが声をかけた。

「怒ってんじゃねぇよ。お前さ、カルシウムが足りないんじゃねえの?今度、飯を作ってやっからさ、食いにくれば?」

俺は返事をしなかった。かわりにイヌが「ワン」と返事して、その声に追い立てられるように家の中に戻った。





4月。満開の桜に祝福されるように、地元の中学に入学した。だぼだぼの制服を着て、おまけに新調したスニーカーまでかぽかぽのゆるゆるで、出掛けにイヌに飛びつかれてまっさらの服が少し汚れた。きれいな満開の桜をもってしても、俺の機嫌は幾分悪い。
唯一の救いはヤツとは学校が別だったことだ。
俺の中学入学と同時に、あの男は高校生になった。お互い自転車通学だったが方向は全然別で、朝に一緒になることも、顔を合わせることもなくなって少しばかりホッとした。
親父が、「また、隣のにいちゃんに頼むか?」と言っていたが、断固として拒否した。ヤツに面倒見てもらうくらいなら、夕飯なんかカップラーメンでもすすってた方がましだ、その時はマジでそう思った。もう絶対世話にはなりたくない、頑ななまでにそれを拒否した。


中学では剣道部へ入部した。
予想通り多少の物足りなさを感じたが、期待をしていなかった分だけ失望もなかったのは確かだ。でも、顧問はいい先生だった。
誰を贔屓することも、邪険にすることもなく、関心があるのかないのか分からないような態度で生徒に接したからだ。
その指導も予想に反して的確で、足りないところを補うような、そんな指導をしてくれる。
剣道に明け暮れ、シャカシャカと片道20分の自転車をこぎながら毎日が過ぎてゆく。





中学2年の終わりの頃、隣の爺さんが故郷に帰るらしいとの話を親父から聞いた。
「故郷に帰って老後を暮らすらしいな。店は畳むそうだ」
爺さんはこの町で小さなレストランを経営していた。味がいいと評判で、かなり繁盛していた店を一人で切り盛りしていた。何回か人を雇ったことはあったようだが、気性の激しい爺さんなので今まで誰一人勤まらなかったらしい。たぶん、蹴ったり怒鳴ったりしたのだろう。その性格をヤツはそっくり受け継いでいる。
結局一人だから深夜まで仕込やらなんやらで、家には戻れないことも多い。そんな生活も老体には堪えたのかもしれない。
「ヤツは?アイツも一緒にか?」
「いや、彼は残るようだ。イヌがいるからかな?」
おそらくそうだろう。イヌのことだけは可愛がっているから。
その時、親父から咎められた。
「ヤツとか、アイツなんて呼び方ははやめたほうがいい。彼にはちゃんと名前があるだろ?」
一度も口にしたことはないが、ヤツの名前はサンジだ。





4月になって桜が散った後、簡単な荷物と共に、爺さんが故郷へ帰った。
はるか海の向こう、行ったこともなければ、想像もつかないくらい遠い場所だ。
早朝、イヌがしきりに吼え、その声で俺は眼を覚ました。
乳白色の朝靄が立ち込める中、隣の玄関先に二つの人影が浮かび見えた。
二人の交わす会話が、イヌの鳴き声でよく聞き取れない。
ヤツは駅まで見送らないのだろうか。爺さんらしき人影だけが白い靄の中に消えていく。
イヌがひどく切なそうな声で鳴き、いつまでも路上に立ち尽くすもうひとつの影を、まるで映画を見るように部屋の窓からただ眺めた。





中学生活は小学校の6年に比べるとはるかに短く感じる。
3年の夏には部活も引退で、その後はすぐに高校受験が待っていた。元々勉強はあまり好きではなかったが、そうも言っていられる状態ではない。否が応でも受験の波に呑みこまれてゆく。
田舎なので受験といっても、そうたくさん選択肢があるわけではない。
勉強ができるヤツがいく高校と、それなりのヤツが入る高校が2つ、そして誰でも入れるような学校。公立だとこれくらいしかないが、私立だと話は別だ。少し遠いがその私立に俺が行きたい高校があった。剣道が強くて、有名な先生に指導してもらえるからだ。
俺が進路の希望を親父に伝えると、

「いいんじゃないか?お前の好きなところへいけ」

反対しなかった。今思うと、親父は俺の意思というものを尊重してくれていた。頭ごなしに否定することも、怒鳴って叩かれた事もないし、いつも少し離れた所から俺を見ている。
そしてそんなことに気づくのは、それを失った後なのだが。





勉強というものに、正面から取り組んだのはこれが初めてだった。面白いものではないが、やってできないこともない。
3年の夏が終わったあたりから、運動から遠ざかった俺の身長がぐんぐん伸びた。骨の成長に身体がついていかないのか、足が痛むこともあったくらいだ。
夜中に勉強していて、隣の家に小さく灯りがともされているのを見ると、色々なことが脳裏を過ぎる。
なかなか追いつかない身長とか、ヒットしなかった拳。
いつかあの男を越えられるだろうか。





自転車でたまに駅に行くとアイツを見かけることがある。
キンキラと黄色の頭が非常によく目立って、いつも違う女を連れていた。
ただの同級生か、または彼女だったのかは知らないが、それを見るとますます差をつけられたように感じてしまう。やるせない苛立ちが溜まり、下唇を噛むようにその場を立ち去った。

早く。もっと早く。早く高校生になって、大人になり、そして自由になりたい。



俺はまだ成長の途中だった。










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