いぬ の はなし。 4









6年になって、とうちゃんを『親父』と呼ぶようにした。本当は呼び方なんてどうでも良かったが、友達が「親父が」と呼んでいるのを聞いて少し恥ずかしくなったからだ。
『とうちゃん』という呼び方が、ひどく子供っぽいような気がして。
でも呼び方を変えるのも恥ずかしかった。妙に照れくさくて、「なァ」とか「ちょっと」なんて声をかけてたら、「きちんと呼べ」と言われ、「親父…」と呼んだら少し笑った。

「お前も来年は中学だな。大きくなったもんだ」
感慨深げにそう言われたのがかなり居心地悪くて、それを無視した。
社宅での生活にはなんの不満もない。
朝起きて、用意されたご飯を食べて、学校へ行って、学校帰りには道場へ必ず寄った。親父がいない日はそのまま飯をよばれて、いれば家でご飯を食べる。
そんな毎日がここ3年続いていたし、これからもずっとそうなるもんだと思っていた。
2月の終わり、朝からどんよりとした曇り空の、ある寒い日のことだ。夕飯のとき親父がいきなり言った。

「3月に移動になるかもしれん。やっと家に帰れそうだな」
茶碗を落としそうなくらい驚いた。
「あそこへ帰るんか?」
「たぶんそうなるか。ここも3年以上になるし、やはりなにかと社宅は窮屈だよな。お前も自分ち家のほうがいいだろ?」
「じゃ剣道は…、剣道はどうすんだよ?やめなきゃならないじゃねえか!」
「あれは中学にいってもできるから心配するな」
学校の部活でやればいい。親父はそう言う。
あの小さな町では個人の剣道場などありそうにない。やるとするなら部活しかないだろう。
だが、部活じゃ駄目だ。たぶん無理じゃないかと。
それで上達は難しくはないか、道場の皆から大きく遅れをとってしまうのではないか、いまさら初心者と一緒じゃ嫌だ。そんな思いでいっぱいだった。

「俺…、俺は嫌だ。ここに残るからッ!」
「馬鹿をいうな。そんな勝手なことができるわけないだろうが」
確かにそれは世間知らずの子供の言い分だが、それでも理不尽だ。何から何まで大人の都合で物事が進められてしまうのが、俺は納得できない。
かなり不満げな顔をしていたに違いない。だが宥めるわけではなく、欲する答えをもらえるでもなく、親父はそのまま問題を先送りした。
「正式に辞令が下りるまでは解からんが、たぶんそうなる可能性が高いってだけの話だ。今からそんなむっとした顔すんなよ。先がどうなるかなんて解からないしな」
「…だって、だってどうすんだよ!もうあそこへ通えなくなっちまうだろ!」
どこかの父親のように、癇癪起こしてちゃぶ台でもひっくり返したい気分だったが、そんなことができる訳もなく、うまくかわされて行き場のない不満が腹にたまった。

その夜、布団の中でいろいろと考えた。
先生にお願いして、道場に住み込みさせてもらおうかとか、貯めたお小遣いでテントを買おうか、それともウソップに頼んでみようか。どれも取り留めにない妄想だ。何回も布団の中で寝返りをうって、そんなことを考えた。
その内に、どこからか小さな音が聞こえてくる。
どうやら曇り空が泣き出したらしい。
社宅の窓を冷たい雨が叩き、そんな音が耳について、初めて眠りの浅い夜を経験した。





3月に入り、少し日差しも穏やかになった頃、親父に正式な移動が出た。
元の勤務地にまた転勤だ。ようするに、予定より2年遅れだけのことだった。
翌日、学校帰りに真っ直ぐに道場へ向った。
俺はどちらかといえば、肝心な時に限って言葉が足りない。だから先生に対する説明も簡潔だ。

「前の町に帰ることになったよ、先生」
そうか、と先生は頷いて、二人して縁側に腰掛け庭を見た。街中だったが緑がある所為か、鳥がしきりに飛んで細い枝を揺らしている。
静けさの中でゆらゆらと、鳥が飛び立つたびに、揺れて、撓る細い枝先。先生の剣先のようにしなやかだ。無駄な力が入っていない。

そして先生の言葉もとても静かなものだった。

「僕はね、君が本当の子供のように可愛かったよ」
先生の子供だったらよかったと思う。
「不器用で、そのくせ、変なところだけは頭が回る」
小さく笑って、ちょこんと鼻にかかった丸い眼鏡が一緒に動く。
「成長を見届けられないのは残念だが、剣道はここでなくてもできる。心配しなくても大丈夫だから」
親父と同じことを言った。
「前に僕が、我慢は自分を抑えることだけじゃない、って言ったのを覚えているかい?」
小さく頷くと、
「我慢はね、した方がいい時と、しなくてもいい時があるんだ。ようするに使い分けなんだよ。しすぎも良くないし、しなさすぎも良くない。この言い方は難しいかな?」
今は我慢しろ、こう言っているような気がした。
頭を優しく撫でて、
「またおいで。待ってるから」
その大きく暖かい手で頭上を覆われ、俺は頭が上げられなかった。だからかもしれないが、ずっと下を向いていたら眼から水があふれ、ますます顔を上げられなくて困った。





卒業式の前日、学校で別れの挨拶をした。一部の生徒を除き、大半が地元の中学校へ進む中、俺にとっては本当の別れだった。ウソップが「お前の家は外国より遠い」と、ぼろぼろ泣く。
確かに遠いがそこまでじゃない。
「また、遊びにくっからさ。めそめそすんなよな」
慰めるつもりで言ったら、「お前ひとりじゃ、1ヶ月経っても辿り着けないだろ?」、意外なことを言われた。確かに道を覚えるのは少し苦手だが、方向音痴じゃあるまいしそんなことがあるはずない。
思ったとおりのことを口に出して反論したら、同情を含んだような眼で、俺の肩をポンポンと叩いた。
「いや、俺様が百人の子分を引き連れて、お前に会いにいってやるから」
そしたらお前、一生来れねぇだろ?思ったが口に出すのはやめた。また会えるかどうかよりも、自分との別れに泣いてくれるヤツの、肩に置かれたウソップの手がひどく暖かく感じたからだ。
臆病で嘘つき。でも気が優しくて、男気のあるヤツだ。
気恥ずかしいのに肩のぬくもりを離しがたくて、いつまでもそこに立ち尽くした。



俺は早く大人になりたい。
自分の思うままに、好きな道を歩みたい。
大人になれば自分の道は360度に開かれ、どこにでも好きなように歩いて行ける。
大人の都合に振り回されたくない。俺は自由になりたい。

だから、早く大人に。


卒業文集にそんなことを書いた。
自由の意味も、道の歩き方さえよく知らない頃の話だ。





週末にはまた引越しだ。たいした事はないだろうと思っていた荷物もまとめるとそれなりの量だった。3年の間に増えたものもある。
この時、初めて思い出というものをあの大きな街から持ち帰った。眼には見えないけれど、それは少し切なくて、言葉には言い表せない、やりきれないものだ。
3年前の道をトレースするように戻っていく。
覚えのある景色が視界を掠めるにつれ、以前に通っていた小学校が見えてきた。あまりいい思い出がなかった場所だ。そして保育園、神社の前を通り、川を渡ってもう少しすれば見えてくる。
生まれ育った家と、その隣には六角形の変な家。草ボウボウの小さな庭と、屋根より高い大きな樹。

イヌは元気だろうか。
あのじいさんの髭は健在か。
あの男はどうしているだろう。





この春、俺は中学に上がる。
すぐに大きくなるから大丈夫だ。そう言われて買ってもらった、泳ぐようにダボダボの制服と共に、またここでの生活が始まる。










NEXT