いぬ の はなし。 3









見知らぬ街の社宅の一室で、とうちゃんとふたりだけの新しい生活が始まった。
建物がいっぱいあって、今度住む場所から駅まではバスでたったの15分だ。大きなデパートやゲームセンター、コンビニ、本屋、ショッピングセンター。今まで住んでいた町と違って、びっくりするくらい何でもあった。
そこの小学校へは3年の2学期から編入した。ようするに転校生だ。
学校へ行く前日の夜、部屋の壁にボールをぶつける俺にとうちゃんは言った。

「お前は口下手だし要領も悪い。おまけに内弁慶だから、いろいろストレスも溜まるんだろうな。だがお前が覚えなきゃいけないのは我慢だ。いいか、もう隣ににいちゃんは住んでない。いくらお前が泣いても暴れても相手してくれる人はいなくて、本当にふたりっきりの生活が始まるんだ。もう3年生だから解かるよな?」

「我慢を覚えろ」、もう一度いって、俺の頭をがしがしと揺すった。
我慢を覚えろ。その言葉よりも、「にいちゃんに相手をしてもらってる」、そう言われたことが不満だった。

「とうちゃんは知らねぇから。にいちゃんはそんな優しい奴じゃねよ。俺はすんげえいっぱい、いつもぶたれてばっかりだった」
「お前もぶっただろ?」
「アイツの方が大きいだろッ!だから力はあっちの方が強い!絶対、俺のほうが痛かったはずだ!蹴る時だっていつもマジ蹴りだ!」
「お前だって手加減なんかしなかっただろ?それでもいつもお前と一緒にいてくれただろうが?」

口では完全負けそうで、わかってもらえなくて、悔しくて腹が立って、苛立ちを示すようにとうちゃんの腕に噛み付いた。あの男の味方ばかりしているようで、ますます腹が立ったのだと思う。

「あだッ!噛み付くな!」
頭を鷲掴みにされて、ひっぺがされた。これがあの男なら速攻で蹴りが飛んでくる。
いくら何をしても、何を言ってもとうちゃんは俺をぶったことがない。
「もうその癖は直ったと思ってたんだが…。お前は小さい頃から、何か気に食わないことがあるとすぐ人に噛み付く。本当に悪い癖だ」
「だからかあちゃんは俺を置いて出て行ったんか?」
その何気ないひとことに、とうちゃんはひどく驚いたような顔をした。そんな表情をされたことに、こっちが驚いたくらいだ。
すぐにいつもの顔に戻って、
「それは大人同士の問題だ。子供には関係ない。それにかあちゃんはお前を置いていったんじゃない。とうちゃんがお前に一緒にいて欲しかったんだ」
解かるよな?言いながらまた俺の頭に手を置いた。
その言葉が父親としての優しさからきたものか、本当にそうなのかは、その当時も、そして大人になった今でも解からない。
だけどその時、俺が気にしていたのはかあちゃんの事ではなかった。とうちゃんが俺の味方じゃなくて、にいちゃんを庇うように言ったのがまだ気に食わなくて、そればかり気にしていた。
またボールを壁にぶつけた。
ボールは跳ね返って俺の手に戻り、投げるとまた大きく跳ね返って積まれたままの引越しのダンボールにあたった。何度も何度も繰り返していると、背後から小さな溜息が聞こえたけれど、それには気づかないふりをした。

その日から、俺はにいちゃんを『にいちゃん』と呼ぶのをやめた。呼ぶ相手はもう隣にはいなかったが。それでも何かの腹いせのように、心の中で『アイツ』、『あの男』と呼んだ。
その夜、布団の中で犬の鳴き声を聞いた。どこか遠くから聞こえる犬の声に、少しだけイヌを思い出した。
イヌも寂しくて鳴くときがあったのだろうか。
何故そんなことを思ってしまったのか。その時に自覚はなかったが、俺は心細かったのかもしれない。






新学期から通った新しい学校。最初はうまく馴染めなくて疎外感を感じたが、でも居心地は悪くない。
前の学校は一学年一クラスの小さな小学校だった。いくら気に食わない奴がいてもクラス替えがないのでそのままだ。今度の学校は違う。3年生でも4クラスある。
大勢の生徒の中で、埋もれるように送る学校生活も悪いものではない。正直いって、気持ちが楽だ。
そうこうしている内にぼちぼちと友達もできて、学校の登下校をそいつ等と一緒に行き来もした。その中でも長い鼻をしたウソップは気のいいヤツだった。たまに見え透いた、バレバレの嘘をつくのが欠点だが。

思い出すことがある。
前の学校で、俺は友達がいなかった。
「チビの癖に乱暴だ」とか、「小さいくせに威張ってる」といわれたこともある。友達がいなくて、友達をつくろうとも思わなくて、それでも寂しいなんて感じたことはなかった。家に帰ればとうちゃんもいたし、イヌもいて、そしてあの男もいた。
「チビのくせに」、「小さいくせして」、よく言われた言葉だ。
確かに俺は小さかった。
背の順に整列すれば一番前で、「前へ、ならえ」ではいつも両手は腰にあった。腹立つことにそれはこの学校でも同じであったが。

それともうひとつ。俺の生活に変化があった。
とうちゃんの薦めで剣道を習いだした。週一回の習い事だったが、余程自分と相性がよかったのかもしれない。
週2回に増やしてもらって、それでも足らずに勝手に見学と称して道場に居座ったりもした。
そんな俺を師範は可愛がってくれたようだ。とうちゃんのいない日は夕飯に呼んでくれて、色々話を聞かせてくれたり教えてくれた。

身体こそ小さかったが喧嘩は強かった。たぶんアイツと喧嘩ばかりしていたから、知らず知らずのうちにだいぶ鍛えられたのだろう。あの男は容赦なかった。俺が噛み付けば速攻噛まれたし、叩こうもんなら壁まで蹴り飛ばされた。小さいうちから場数だけは踏んでいたから、それなりに俺は強い。
学校では大人しくしていたが道場ではたまに揉め事を起こした。先輩に因縁を吹っかけられ、その理不尽さに挑発されたように俺がいきり立ったからだ。
しょっちゅう道場に入り浸っていたこと。師範に眼をかけてもらっていたこと。たぶん俺が強かったから。そんな理由からだろう。
やっかむようにねちねちと嫌味をいう奴がいた。2つ上の先輩だったが、実力の世界に上下関係はさほど重要ではないと思った。そんな考えが「生意気だ」、「調子付いてる」とますます癇に障ったようだ。
師範が道場から席を外したわずかな時間にまた絡んできた。無視したら調子に乗ってますます絡む。俺はその男を鼻先で笑い、挑発した。この場合、先に手を出したほうが負けだ。
案の定、ソイツから先に手を出した。最初は殴られてやる。これも定石。ちゃんと受身で外してあるから痛くもなんともない。理由ができた俺はその男を殴った。殴った数は2。ちゃんと倍返しだ。鳩尾に一発、そして顔面にクリーンヒット。
腹を押さえて床をのたうちまわり、唇が切れて血が出て、そいつはわんわん大泣きした。本当は弱いくせに突っかかってくるから性質が悪い。アイツならすぐにかわして、こんなに簡単にやられてくれないのに。勝っても、何故か物足りなさを感じた。



道場に隣接した師範の家。誰もいない家の広い縁側に腰掛け、先生は庭を眺めている。
狭いながらも手入れの行き届いた庭だ。なんの実だろう。小さな赤い実がたわわになっている。誰かさんの家の草がボウボウ生えてる庭とはえらい違いだと、先生の隣でぼんやりそんなことを考えてると、静かな声で俺に語りかけた。

「ゾロ。我慢は自分を抑えることだけじゃないんだ。冷静に物事を判断し、自分をみつめることでもある」
今になればその言葉の意味は多少なりとも理解できる。だがその当時は、あまりにもチンプンカンプンだった。
自分を抑えなくても我慢だと先生は言う。とうちゃんの言ってることと少し違うような気がする。しかも自分をみつめることの意味が判らない。鏡を見るわけではないだろう、その程度の理解力しかなかった。

「まずは力を抑えることを学ばないとね。そして力だけじゃ駄目なんだ」
先生の話し方はとても優しい。頭ごなしに怒鳴らないし、子供相手でも丁寧だ。

「今は理解できなくとも、覚えておけばいい。いいか、忘れるんじゃないぞ」
忘れるな、とそれを刷り込むように頭を揺すられた。






当初、1年の予定だった転勤だが、その年も、また翌年もとうちゃんに移動の話は出なかった。
学校と、友達と、道場の生活に俺は満足していた。食事はとうちゃんが用意してくれたし、たまには先生の家に呼ばれにいったりもしたのでなんの不自由もない。
ある晩のこと、とうちゃんが飯炊きを失敗した。間違って保温にしておいた状態で炊き上げたのから芯が残ってまずかった。
「アイツの飯もこんな時があった。コロッケなんか中身が出てスカスカだったりして。もしかすると、すげえ下手糞だったんじゃねえか?」
あの当時を思い出して言うと、
「お前が小学1〜2年のときを考えてみろ。飯が作れるか?今だって何もできないだろ?お前に小さな子供の面倒が見られるのか?」
また、あの男を庇った。
理屈じゃなかった。とうちゃんがアイツの味方をするのが面白くない。できるできないとかの問題じゃなくて、俺はあの男に面倒を見てもらったという事実を認めたくなかった。

「やればできんだろ?ヤツにもできたんだから」
湧き上がる腹立ちをおさえ、素っ気なく言うと呆れ返ったようにとうちゃんは口を閉ざした。
その日の夕飯はとてもまずく感じた。芯の残った御飯の所為だけじゃないかもしれない。
噛んでも噛んでも残る芯は、消化不良を起こした気持ちのように、口の中に、そして腹の中に残された。










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