いぬ の はなし。 2









仔犬は『イヌ』と呼ばれていた。
「俺が名前をつける」、と張り切っていたにいちゃんは、ジャクリーンとかキャサリンだのそんな名前ばっかり考えていて、ようやく、
「お前の名前は『エリザベス・アントワネット』だ」
どこから探し出したのか、イギリスとフランスが結婚したような名前をつけた。学校の図書館ででも見つけてきたのかも知れない。
1週間も考えに考えて、考え抜いてつけた名前なのに、
「その犬はオスだ」
にいちゃんがいつも言うところの「クソジジイ」に言われて、気持ちが萎んだようだ。


「『イヌ』でいい」

オスだったからがっかりしたのか、もう考えるのが面倒になったのかは解からない。でも名前が決まらなかった間、ずっと『犬』と呼ばれていたので違和感はなかった。
名前がないわけではない。

犬の名前は『イヌ』。








にいちゃんはイヌを可愛がった。
俺のことはいつもぶったけど、イヌは叩かない。
自転車で遊びに行く時も、俺のことは走らせたがイヌはちょこんと前カゴだ。
でもそれはそう長い事ではなかった。イヌはすぐに大きくなって、その年の冬にはもう自転車カゴには入れないくらいデカク重くなった。
そして替わりのように、俺を後ろに乗せてくれるようになったのも冬の終わり。
霙交じりの終い雪が舞い降りた、ある寒い日のこと。
耳が千切れそうに寒くて、ぎゅうぎゅうしがみついて乗せてもらったのを覚えている。

イヌは立派な雑種だった。
仔犬の時はあんなにも可愛かったのに、大きくなると下校途中の小学生にマッキーで眉毛を書かれちゃいそうな犬になった。
それでもにいちゃんは可愛がっていた。
たぶん俺よりも、ずっとずっと。








マァ〜リモ、マリモ、クソマリモォ〜。
マリモはチ〜ビで、泣き虫で
ションベンたらしのくそったれぇ〜

調子っぱずれの歌を口ずさみながら、にいちゃんは俺を誘いに来る。
春。近くの汚い川でおたまじゃくしの卵をとった。草ボウボウのにいちゃんちの庭で立派な蛙になって、ぴょンぴょン跳ねてそれをイヌが吼える。
「なんだ、なんだ?お前はなんだ?」、ワンワンワンワン吼えてうるさい。でも根が臆病なのか、いくら吼えても手は出さない。そうこうして鼻っ面にぴょんと飛び乗られ、きゃいんと泣きながら庭を駆けずり回り、そんな姿に俺達は大笑いだ。


夏。川でザバザバとイヌが泳ぐ。
誰が教えたわけでもないのに、イヌはちゃんと泳げた。散々泳いでずぶ濡れになって、その身体をわざわざ俺達の近くにきてブルブルして、「臭せッ!川臭せッ!」、ギャーギャー喚きながら逃げ回った。
必死で逃げると、何か勘違いしたイヌは、
「追いかけっこか?俺もやるぜ、俺もやるぜ、俺にまかせろ」、嬉々として俺達を追い掛け回した。


秋。にいちゃんちにあるでっかいシイの樹に登って、俺達は『どんぐり爆弾』を投下した。
バラバラ舞い落ちるどんぐりの雨。樹に登れないイヌは、
「俺もだ、俺もだ、俺も昇らせろ!」、下からワンワン吼えた。
神社の境内にある銀杏の木は、秋になると黄色い実をぼとぼと落とす。踏むと臭いので俺たちは近寄らないのに、イヌはそんなことは全然お構いなしだ。
わしわしとそれを踏みつけ歩き回り、挙句、俺たちにそんな前足で抱きつこうとする。
「寄るな、触るなッ!臭っせえええええ!」
イヌは犬のくせに鼻が悪いのかもしれない。いつも匂いに無頓着だった。


冬。すっぽりと首までこたつに入って、漫画を読んだりビデオを見たり、ゲームをして過ごした。
「ガキ共は外で遊べ」、大人に言われても、そう簡単に出るつもりはない。外は寒い。『子供は風の子』なんて嘘だ。子供だって寒いものは寒い。そんな俺達をイヌが外から恨めしそうに見る。
「散歩にいかないのか?」、「遊ばないのか?」、「俺は中に入れてくれないのか?」
北風がびゅうびゅう吹く寒い日。イヌが可哀想になったにいちゃんが家の中に入れてやると、
「イヌはァ〜、そとッ!」
豆まきの鬼のように外に叩き出された。
「こんな寒い日ぐらい、いいだろッ!可哀想じゃねえかッ!クソジジイ!」
ムキになって抗議したが、
「ガキもォ〜、そとッ!」
チビナスがッ、わしに口ごたえなんざ百年早いッ!そりゃあもう、後2百年は生きそうな勢いで外に蹴り出される。


「チクショー、クソジジイ、クソジジイ、クソジジイ…。俺は絶対あんな大人にゃならねえッ!」
寒さで鼻をがびがびさせながら、にいちゃんはずっと呪いの言葉を吐いていたが、今になると解かる。
にいちゃんとじいさんは似ている。なんだかんだ言っても、血の繋がりって奴だ。
乱暴で横暴で凶暴で、いつも人の話なんか聞かない。
にいちゃんが優しいのはイヌだけ。
どんなに怒鳴っても、一度も蹴ったリぶったりしたのを見たことがない。





俺は月の半分はにいちゃんの御飯を食べ、月の3分の1は一緒に夜を過ごし、そうこうしている内に小学生。一学年一クラスの小さな学校。
毎朝、にいちゃんが俺を迎えにきてくれた。
学校まで、普通に歩いて50分。人様んチの塀の上を歩き、棒切れで空き缶や石を転がしながら歩けば60分。
学校が近くなって途中で友達にあうと、簡単に俺は無視される。見事なまでに眼に入らないらしい。それが面白くなくて後ろから石を蹴ったり、輪ゴムを飛ばして無言の抗議をした。
普段は気が短いくせに、癇癪もちのくせしてこういう時だけ変な我慢をする。本当に意地悪だ。

早く振り向けばいい。
怒鳴りながら俺に喧嘩をふっかければいい。
向けられた背中に、ランドセルに、いつまでも小石を投げ続けた。





小学校3年の夏まで、俺の生活の半分はこの男とイヌと共にあった。
その年の夏、とうちゃんに時期外れの転勤の辞令が降りた。当然、付属品である俺も一緒に行かなければならない。
本社勤務で赴任期間は約1年だという。ここは持ち家なのでそのままだ。荷物も最低限のモノしか持っていかない。
引越しの前夜、とうちゃんと二人でお隣に挨拶に行った。大人同士が挨拶を交わす隣で、子供は子供同士で言葉を交わした。
「行くから」、と言ったら、「ふうん」とつまらなそうな顔をした。
「大きな町なんだってさ。近くにゲーセンやコンビニもある」、俺が自慢げに言うと、

「だけど、1年したら帰ってくんだろ?」
俺は返事をしなかった。意地悪のつもりじゃなかったと思う。あまり自信はないが。
そしてにいちゃんもそれきり口を閉ざした。


まあ、そんなもんだ。

翌朝、イヌがワンワン吼えて見送ってくれて、車がいつも遊んでいる川の橋を渡り、神社の前を通り抜け、俺の通った保育園、誰も居ない夏休みの学校を過ぎても俺は何とも思わなかった。


8歳の夏。
感傷とか、8年の短い人生とか、思い出を振り返るほど俺の情緒は発達していなくて。
子供がいないあの町内で、俺が居なくなったらにいちゃんは誰と遊ぶのだろう、なんて考えるゆとりも知能もなく。
俺より頭ひとつ大きいにいちゃん。
いつまでも縮まらない身長差。そんなことばかり考えていた俺は、そのまま生まれ育った町を後にした。










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