いぬ の はなし。 11









バス、電車、飛行機、また電車、そしてタクシーと交通を乗り継いで、親父のいる北の地に降り立った。

電話があったのは朝食のすぐ後だ。
夏休み中のヤツがいて、俺は剣道の稽古の為に出かける準備をしていた。
家の電話は滅多に掛かってくることがない。親戚もそう多いほうではないし、親父も単身赴任中だからあっても勧誘の電話くらいだ。個人の用件はケータイにかかってくる。


電話に出た後、ヤツが声をかけてきた。
「どうかしたのか?」
珍しく真剣な面持ちだった。後から思えば、そのとき俺はよほど変な顔をしていたのだろう。
「親父が倒れたらしい」
遠いがこちらに来てもらえまいか。慌てないで、落ち着いて来て欲しいと見知らぬ男からの電話だった。同じ会社の人間だと名乗っていたが、その男のほうが少し慌てていたのを感じた俺の心臓が小さく跳ねた。胃の腑が重くて仕方ない。教えてくれたのは病院の住所と、そして電話番号。


「俺も行く。お前一人じゃ無理だ」、今日中に辿り着けないと、やりかけの後片づけを放って、スーツの上着を手に、すぐに戻ってきた。








想像以上に遠い場所だった。
親父の勤務地へ、俺は一度も行ったことがない。暑いけど少しだけ気温が低く空気が乾燥して、見知らぬ街だったが空だけは地元と同じ色だ。


この時のことは、全部記憶しているわけではない。ところどころ、虫が食ったように記憶が抜けている。
着いたところは大きな病院だった。病院独特の匂いと白い壁、そして白色灯とリノリウムの床。清潔な、そんな馴染みのない空間に親父が横たわっていた。
お悔やみの言葉と共に、医師から告げられたのは臨終の時間だ。
呼びかけても返事がなく、まるで見知らぬ人間のように眠っていた。





詳しい死因を調べるためにと解剖をすすめられて、俺とヤツは別室でその時間を過ごした。
待っている間、きれいな床に小さなシミがあるのに気づいた。
清潔な病院にこびりついたシミが、やけにその汚れが目障りで、俺は椅子に腰掛けたまま目を閉じた。隣に腰掛ける男は何も語らない。そこは音がない空間、目を閉じればその奥には吸い込まれそうな深い闇。
何故か、気が遠くなるくらい眠い。





葬儀は会社側ですべて執り行ってくれるという。地元まで遺体を搬送するよりも、こちらで火葬葬儀一切をしてはどうかと持ちかけられた。それについて、俺に電話してくれた人間が、
「明らかに過労死だ」、「会社側のいうことを鵜呑みにしてはいけない」、「裁判に持ち込めるのではないか」など、善意で教えてくれたのだろうが、実はあまり真剣に聞いていなかった。
そんなことよりも、俺は眠くて仕方ない。ちょっと油断すると、すべてを持っていかれそうなくらい眠い。
これはなんだろう?


遠くから駆けつけてきてくれた親父の兄弟とよく知らない親戚、様々な人間に語りかけられ、慣れない挨拶をして、そしていろいろな段取りと手配。いずれも、あまり記憶にないことだ。
俺は眠かった。何もかもどうでもいいと思えるくらい、眠くて眠くて仕方ない。
通夜を終えた翌日、告別式の前に俺はヤツから平手打ちを食らった。ピシッと鋭い音が頬を叩き、
「いいか、眠ってんじゃねぇぞ。終わったら死ぬまで寝てていいから」
起きてろ。ちゃんと送り出してやれと。
叩かれた頬がじんじん熱い。


「母さんを呼ばなくてもいいのか?」
親父の兄弟から訊かれた。ほとんど交流はないが、伯父さんにあたる人間だ。
だが教えようにも俺は連絡先を知らない。たとえ知っていたとしても、今からじゃ葬儀に間に合うわけがないと、あまり深く考えなかったのは確かだ。そのとき、何故か俺はねえちゃんのことを思い出した。
自分の子供を見送ったかあちゃんの気持ちとか。
ふと思っただけだ。ただただ眠くて、我慢しすぎて頭がぼうっとして、だから物事がうまく考えられなかったので。


本当に眠くて、これは病気じゃないかと思うほど眠くて。
だから覚えていることが少ないのだ。
北国でもやはり夏は暑い。用意してくれた黒い服が光を吸収するからますます暑くて、でもその日の空はまぶしいくらい青かったとか。
そんなつまらない、どうでもいいことだけだ。








帰路は電車を選んだ。飛行機の手配を断り、俺はヤツと一緒に親父を連れ帰った。飛行機代がもったいないと、親父がいつも電車で帰ってきたのを思い出したからだ。
窓際にヤツが腰掛け、その隣に俺が座ると猛烈な勢いで眠気が襲ってきた。これはいつものことで、高校のときから電車に乗ると眠くなるのだから。
だから仕方ないのだと、うつらうつらしているとヤツが何も言わずに俺の頭を自分の肩に乗せた。
骨ばってて堅い、それでなくとも肉が少ないから痛いのに、枕替わりのその肩が妙に心地よい。
そのまま眠りについた俺と布に包まれた白い箱、そしてヤツをあの町へと電車が運ぶ。










朝一番、日の出と共に向こうを出たのに、こっちに着いた時は午後をすっかり回っていた。
バスから降りて家に向かう。
あれから数日経っているが、何もなかったようにここは変わらない。まさに、世は、すべて、こともなしだ。
相変わらず子供が少なくて、見たことある爺さんや婆さんの顔ばかり、本当に何もない、辺鄙で長閑な小さな町。
もうひとつ角を曲がると家が見える。


その角でいきなりヤツがしゃがみこんだ。
ヤンキー座りでアスファルトの地面を見てる。何か落としたのか、または腹でも痛くなったかと、不思議に思っていると手で向こうに行けと払われた。
しっしと犬のように追いやり、自分は俯いたまま地面を見ている。

「…くそったれが…。もう少しで家だってのに…」
「どうした?」
「…うるせえ。てめぇはさっさと家にいっちまえ」

返事をしないでいると、また犬のように追い払われた。この角を曲がると家だ。

「…早く行けよ」
「なんでだか、なんでだか知んねえけど、一人じゃ気が進まねえ…」

正直に答えるとヤツが頭を掻きむしった。乱暴な手が金色の髪をバラバラにして、白いシャツがやけに眩しい。

ひとつ、小さな滴がうな垂れたままのヤツの足元に落ちた。

「言っとくが、これはてめぇの為じゃねえぞ…」

「お前の替わりでもねぇからな」

またひとつ。

「お前、前に言ってたよな?クソジジイが国に帰ってイヌが鳴いたときのこと。俺の気持ちに共感したかどうかは知んねえが、たとえそれでイヌが悲しんだとしてもそれはアイツの悲しみだ。俺のじゃねえ…」

ぽたぽたと滴が地面に落ちる。

「だから、これも俺のもんだ。てめぇが泣こうと泣くまいと」

茹るように熱いアスファルトにシミをつくって、

「お前は、お前のそれと、どんな形であれ、ちゃんと向き合ったほうがいい」

そのまま黙り込んだ。





ヤツの話を聞きながら、俺はまたつまらないことを思い出した。
イヌが隣にやってきた日もこんな暑い夏の日だった。

『いいもん見せてやっからさ、早くこいよ』

嬉しそうに俺の手を引いて、ずっと頭ひとつ大きかった男が、見上げた金色の髪がきらきらと、眩しいくらいに光っていたと。



どうでもいいくらい、昔のことなのに。










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※辛気臭い話ですみません…。