いぬ の はなし。 12









49日の法要と納骨、それが済むと何もなかったように日々が過ぎてゆく。
ただ、俺はひとりで家に居たくなかった。本当に不思議なことだが、生まれ育った自分の家なのに、何が嫌というわけではないが、その頃は隣に入り浸ってばかりいた。
ヤツは何も言わずに俺を受け入れた。
飯を食って学校へ行き、また夕飯を共にして寝る。気が向けばじゃれ合いのようなセックスをして、また眠ると朝が来る。


カチコチ、カチコチ、俺の部屋で、誰もいないところで時計が季節を変えてゆく。
夏の暑さが思い出せないくらい、寒い冬へと時間は進んでいった。










ある晩、俺は夢を見た。
夢の中で、この夢は昔見た夢だと思い出した。
いつかも思い出せないくらい昔の夢だ。
そこで俺は子供だった。
もどかしいくらいに幼く、かあちゃんとねえちゃんの所へ行きたいが、どうしても向こう岸行けずに、ただただ不安だけを感じている。
ねえちゃんが俺を呼ぶ。早くこいと呼んでいる。
いくら名前を呼ばれても、川に架かる橋が渡れない。
かあちゃんが俺の名前を呼べば。
名前を呼んでくれれば、迎えに来てくれればいいのに。
かあちゃんの手はねえちゃんと繋がれて、残った手で俺を招くことはなかった。

いくら待っても、かあちゃんは俺の名前を口にしない。








眼が覚めると俺は薄闇の中にいた。
少し心臓がドキドキしてる。まるで悪い夢を見たときのように、ひどく心と身体が落ち着かない。
寝返りを打つと、隣で寝ていたヤツも眼を覚ましたらしい。白い腕で俺の頭を抱いて、目蓋に唇を落とした。
そっと何かを拭うように触れる唇。俺は自分が泣いているのに気づいた。零れ落ちる温かいものが、流れるものが頬を伝う。
満たされないものをヤツに求めた。


「…名前を」

俺の名前を呼んでくれと。
「…てめぇだって、俺の名前を呼ばないくせに…」
何で俺からなんだ?年上だからって、甘えんじゃねえぞ。デカイ図体して可愛くもねえと、ひとしきり言った後、
それは小さく、囁くような低い声だった。


ゾロ、と。
また、ゾロと、繰り返して、何度も名前を呼びながら、触れる唇は優しく、抱かれたその腕は温かかった。
姉のように無造作に俺を抱き寄せ、それは兄のように乱暴な手つきで。
だが抱かれたその胸は温かく、ゆるやかに脈打つ心臓の鼓動と共に、名前を呼びながら恋人のように俺を包み込んだ。


霙交じりの雨が窓を叩く。
パシパシと音を立てて、ガラス窓が凍えるように震えている。古びた家屋は隙間から冷気を吸い寄せ、俺の部屋よりずっと寒いこの場所で、身体を寄せ合って体温を保ちながら、


そして春を待つ。






















となりのじっちゃんばっちゃん
いもくってへ〜して
パンツがやぶれておおさわぎ



ヘイッ、と大きな掛け声と共にサンジが部屋に入ってきた。

「つまんねぇの歌いやがって…。昔とあんま変わんねぇもんだな。今でも学校じゃガキ共が歌ってんのか?つうか、ドアは手で開けろ。蹴るな」
「いや、少しだけ違うぞ。今時の替え歌の方が少しばかり物騒だ」
わざわざ手を使って開けるほどの家じゃねえと、ヘンな理由を述べながらサンジが部屋を見渡した。

「何だ、引越しか?それとも泥棒でも入ったんか?」
「片づけだ、アホ。しかし、片付ければ片付けるほど散らかるのは何でだ?」

1階のその部屋は、まさに泥棒が入ったかのように散らかっていた。ゾロなりに片付けているつもりらしいが、結果的には夜逃げ寸前の有様である。
大きなダンボールが34つ。その周りに物が散乱しており、これらはゾロの父親が保管して置いたものだ。

「お前、学校はもう終わりか?」
夕方前だった。こんな時間にサンジが職場から帰ってくるのは珍しい。
「他のお偉いセンセ方は、教育委員会の懇親会とやらにお出掛けしちまった。新米センセじゃお呼びもかからねえ」
よって早仕舞いだと、サンジは機嫌がよかった。
望んだ教職も、予想以上に大変らしい。
サンジに言わせると、「まず親だろ?煩せえんだよな、これが…。次にセンセ方。そして負けず劣らず、ガキ共も言うこと聞くっちゃねえ。ぶったり蹴ったりすると、これまた大問題だしよ…。どーしたらいいもんかね?」
拘束時間は長いし、それ以外でも時間を取られ、思ったより給料は安いと愚痴も文句も非常に長い。


「ちょっと整理するつもりだったんだがな…。予想外に時間を食っちまった。これから出かけなくちゃならねえってのに…」
「今からお出掛けかよ?」
出し忘れたレポートを今日中に提出しなければならないし、だけど部屋は散乱していて、どうしたものかと考えていたところだ。
「飯は?」
「帰ってから食う」
「風呂は?」
「飯の前」
「俺は?」
「…帰ったら相手してやるから、とりあえずレポートを出さないと単位がもらえねえ…」
「ほぉ、相手してくれんのか?随分とお優しいんだな、てめぇは。で、散らかりまくったコレのお片づけはどうすんだ?」
ゾロは喉を詰まらせた。
「お相手してくださる御礼に、出来るとこまで片付けてやろうか?」
「おめぇが?」
「『俺様が』、だ。ボケ」
感謝しろとサンジがゾロを蹴った。
チッ、と舌打ちした後、
「あんま、余計なとこは見んなよ?必要そうなのは白いダンボールに入れろ。要らなさそうなのはこのダンボールだ。しかし親父のヤツ、何でもかんでも溜め込みやがって…」

バスの時間がなくなると、ゾロは家を飛び出した。





1階にある、この部屋の主はすでに他界していない。
ようやくゾロがこの部屋にあるものを見る気になったのは喜ばしいことだ。一時期は家に帰るのさえ帰宅拒否のように嫌がったのにと、その当時に比べるとだいぶ気持ちも落ち着いてきたのだろう。
親の葬式に泣くことのできなかった男が、その感情をどう処理したのかサンジにはわからない。慰めるわけでなく、何をするでもなく、ただ望まれれば傍にいただけだったと思う。


夕飯までにざっと片付けなければならない。ひどい散らかりようだ。
まずは大まかに分類してまとめ上げ、そこからさらに細かく要不要をチェックする。
作業を進めながら、ふと手にしたその箱にはゾロの高校時代の成績表が入っていた。
余計なものは見るなと言っていたが、「見るな」と言われれば見たくなるのは人として仕方のないことだ。これが「余計なもの」かの判断は各々違うだろうと、サンジは連慮なく箱の中身を取り出した。
ざっと見るところによれば、1年のときは意外なことに良い成績だった。だが2,3年と徐々に下がり、最後の頃など、これでよく推薦が通ったものだと思うくらいである。
その下には中学時代のものが収められていた。もちろん成績表もあった。
「やはりお勉強は苦手か…」
12年と溜息をつきたくなるくらいだ。だが3年になると奇跡のように向上しているのは、どうやら入りたい高校の為だけに勉強したのではないかとサンジは考えた。
『やればできる』、の見本のようである
やる気がなかったらしい小学校の成績は、予想通りひどいものだった。
3年の2学期から卒業までは自分の知らない時代だ。
「行くから」と、そっけない言葉でこの地を去っていったのは、確か小学3年の夏だったと記憶している。


ゾロは小学校で孤立していた。
分校のように小さい小学校でたったひとり、群れずに、誰にも媚びないで過ごしていた。
要領が悪いやつだとサンジは思った。協調性がないとも、何様だと思うくらい、チビのくせに生意気で。学校でまで面倒見るつもりはさらさらなかった。
だがその姿は凛としていた。
背伸びするようにまっすぐに伸ばされた背中と、いつも顎をあげて上に向けられた強い眼差し。思い出すと、何故か胸がちりちり痛む。



ほぼ年代順に、そこにはゾロの軌跡があった。
成績表のみならず、文集、絵、表彰状。剣道の賞状がたくさんあって、絵はびっくりするほど下手で、「親父は何でもかんでも溜め込んだ」というゾロの表現はピッタリなくらいだ。
小学12年の頃は、「取ろうとしても、なかなか取れるもんじゃない」と、感心するほどひどい成績である。
とりあえず記念に取っておくかと、白いダンボールに入れるものばかり増えて捨てるものが少なかった。こういうものは本人以外捨てにくい。


保育園の卒業アルバム、そして数々の作品が出てきた。
絵。まるで象形文字のようで、何を表現しているのか当てるのが困難なくらい難易度が高いものばかりだ。
画用紙を折ってホチキスで閉じた、数ページの手作り本らしきものが出てきて、『ももぐみ』とそこには書かれてあった。
白い画用紙に、ただ鉛筆で描かれたタイトルのみの表紙と、中身はひらがなの文と稚拙な絵。


「…すっげ、下手な絵…。おそらく保育園一だな…。しかし、あれでもひらがなだけは書けたんか?」


「絵本のつもりかよ、これで…」


「バカが、全部『っ』が抜けてやがる」


「『ん』まで抜けて…。自転車をこいだのは俺だろ?後ろに乗ってただけのくせしてよ…」



ひとりごとを言いながら、3回読んでサンジはそれをそっと白いダンボールへ入れた。















いぬ の はなし。    ろろのあ ぞろ









にいちゃんと いぬと おれ。





きにのぼた


じてしゃをこいだ


かわであそんだ





にいちゃんがわらて


いぬが わんわん うるさい


おれがわらて


わん わん わん










にいちゃんと いぬと おれで そうして おしまいであた。








わん わん わん わん











たのしかた









          わん。




















END


2007/1.25