木で作られた赤い橋。
川の向こうには、かあちゃんとねえちゃん。
俺だけがひとりこちら側。
橋を渡って向こう側へいこうとすると、何故か橋が遠ざかる。
いくら追いかけても近づかない橋。
ねえちゃんの右手はかあちゃんと繋がれ、もう片方の左手を大きく振りながら、早くこいと俺を呼んだ。
俺はひどく焦った。もたもたしていたら置いて行かれてしまう。
でも橋が渡れない。
置いてけぼりにされそうな不安感。
むずむずと、おしっこを漏らしたくなるくらい心もとない。
どんどんどんどん遠ざかる橋。
淋しくて、心細くて、すごく怖い。


ねえちゃんが俺を呼ぶ。
『ゾロ』、と名前を呼ばれ、『早くおいで』。いくら声をかけられても向うにはいけない。


かあちゃん。
かあちゃん、かあちゃんが呼んでくれれば、きっと。


少し悲しそうな顔と、ぶらりと下がったままの右腕。
いくら待っても、かあちゃんは俺の名前を呼ばなかった。








夢から醒めると俺を見ている眼に気づいた。
薄闇の中に、鈍く光る金色の髪。
そっと伸ばされた白い腕。
俺を抱き寄せ、頭部を両腕で包み、目元を何度も舐める。初めて自分が泣いていることを知った。
記憶になかったくらい古い夢だ。今まで思い出したこともないくらい、むかしむかしの。俺にそれを思い出させるかのように、切なく悲しい夢。
窓ガラスを霙交じりの雨が叩く。隙間から冷気が部屋の中まで入り込み、温まった布団の中で俺たちは身体を寄せ合った。
ぱしぱしと、窓を打ち付ける雨の音だけが部屋に響く。







いぬ の はなし。 1







とうちゃんがいて、かあちゃんがいて、ねえちゃんとそして俺。
よく覚えていないが、3歳まではそんな生活だったらしい。後から聞いて知っただけであまり記憶にない。
覚えているのはとうちゃんと、俺と、そしてにいちゃん。
にいちゃんは隣の家の住人。古びた木造の、六角形の変な家。狭い庭なのに大きな樹があって、地面には草がぼうぼう生えていて、まるで空き家かお化け屋敷のような家に、三つ編みの長い髭をもった爺さんと一緒に住んでいた。


にいちゃんは負けず嫌いだ。
ゲームをしていて負けそうになると、
「もうやんねぇよ。ガキ相手に勝ってもつまんねえし」
コントローラーを放り投げる。
じゃんけんをして、俺が『パー』で勝つと悔しそうに握り締めた拳固で俺を殴り、『グー』で勝つといつまでも2本指で顔を突き、『チョキ』で勝ったりするとそのまま顔面に平手打ちを食らった。


本当ににいちゃんは凶暴で。
喧嘩をするといつも本気で俺を蹴った。壁に叩き付けられたことは何度もある。俺が泣きながら噛み付くと、
「いっでええええ!このクソマリモおおおおおッ!」
血が滲むほど噛まれる。
頭なんか何回叩かれたか解からないくらい叩かれた。
返事をしないと、「返事ぐらいしろ」と叩かれ、
思っていることを口にすると「口ごたえするな」、と叩かれ、
泣くと、「男のくせに泣くな」と叩かれ、
仕方なしに泣きながら謝ると、「簡単に謝るな」。
また叩かれた。


そんな毎日だったが、それでも俺は遊びたい。少しでも一緒にいたかった。
他に遊び相手がいなかった所為もある。この近辺に子供はほとんどいない。


とうちゃんの仕事は夜勤があるので夜は家に居ないことが多かった。
そんな夜勤の日は必ずにいちゃんが来て、夜は一緒に寝てくれた。
大人がいない家。押入れの向うに何かが潜んでいそうで、天井の木目さえお化けのように見え、怖くて心細くて俺は泣いた。
布団の中でしくしく泣いていると、にいちゃんは台所にいって俺に飲み物を持ってきてくれる。
子供用のカップに暖かいミルク。砂糖でも入っているのか、ほんのりと甘い。
でも泣きながら飲むそれは、涙と鼻水が混じってしょっぱくて。大人になった今でもその味を思い出すことができるが、二度と口にしたくない嫌な味だ。
ぐずぐずと、ぐずりながらソレを飲む俺に、
「泣くなよ。俺だって泣きてぇし…。ジジイが居ない夜は、俺だってずっとずっと一人で…」
にいちゃんまでぼろぼろ泣きだし、悲しくて寂しくて、布団の中でぎゅうぎゅう抱き合い、ふたり泣きながら夜を過ごしたこともある。






俺よりも頭ひとつ大きいにいちゃん。
その当時、とうちゃんとにいちゃんが俺のすべてだった。
そんなにいちゃんは俺に飯を作ってくれた。
最初は時々だったが、俺の飯を作ってくれていることを知ったとうちゃんは、次第に飯作りを頼むようになった。
初めのころの飯はまずかった。
御飯は硬かったり柔らかかったり生煮えだったしたし、味噌汁は出汁が入ってなくてただの味噌湯だったこともある。野菜が全部繋がっているのは当たり前で、冷凍コロッケは爆発して中身が飛び出してスカスカだった。
でも『習うより慣れよ』のことわざどおり、回数をこなしたにいちゃんの飯は次第にまともになった。
食べている俺の顔を見ながら、いつも「旨いか?」と訊ねる。「まずい」、正直に答えると拗ねたように唇が尖がって、「旨い」と返事をするとそれはそれは嬉しそうに、でも少し恥ずかしそうに顔を赤くして笑った。





夏のある日、にいちゃんは家に来るなり俺の手を引っ張って自宅へ連れてった。
「すっげえ、いいモン見せてやるからさ」
嬉しそうに笑う、そんなにいちゃんの頭上がきらきら輝いていたのを俺は良く覚えている。金色の髪が太陽のように眩しい。
蝉がじょわじょわじいじい鳴いている、暑い夏の日の午後のこと。
隣の家で見せられた『いい物』とは『仔犬』だった。
真っ白で小さくて、はっはと赤い舌を出して落ち着きなさそうに動き回る仔犬。ころころに太っていて、まふまふしてとても可愛い。


蝉がじょんわじょんわうるさい夏の日に、犬が隣の家にやってきた。


にいちゃんと犬と俺。
当然これはエライ順番でもあり、その当時、俺は犬以下で。
そしてその時、俺は『もも組さん』で、5歳。
にいちゃんは小学3年の夏。










NEXT