HOTEL RUINS 6








しばらくして、ゾロが部屋に戻ってきた。
目を瞑ったまま片肘ついて額を覆い、大きな溜息を吐き出すと思い出したようにまた酒を飲んだ。その額にはまだ汗が滲み、苦渋に満ちた表情は10年越しの便秘に悩む哲学者のようだ。
チラリとサンジを見た。
そして、
「お前…」
そう言いかけると、サンジは慌てて聞き返した。
「あ?何だ、酒か?追加持ってくるか?」

続きを聞きたくなかったからだ。
もしかすると、そんなことは考えたくないが、もしかして食中毒か寄生虫などの可能性もある。充分に気を付けているつもりでも、その可能性は無きにしも非ずだ。メインの肉料理は山鶉だった。処理が甘かったのだろうか。または充分に加熱されていなかったのか。
もちろんウソップの作った薬の可能性だってある。だが、痺れ薬でも眠り薬でもなさそうで、当然ながら肉汁にはなりえないだろう。アレはうっかり自分の口に入ってしまい、しかも痺れ薬に変化して、現在では大いなる憂鬱に変化している。
ゾロの体調不調がどういった原因によるものか、その理由はともかく、サンジはその話題から話を逸らしたかった。
ウソップのように嘘をつき通せる自信がない。

返事を待たずにサンジは腰を上げた。酒を取りに立ち上がったつもりだった。なのに、どうした訳か膝が崩れた。正確には膝が崩れたという自覚すらなく、サンジの身体がぐらりと横へ、そして後方へ倒れていった。
サンジは慌てて何かを掴もうと手を伸ばした。が、その手に握ったものは白いテーブルクロスだった。
「…え?」
「おい?」
「あ、あれ?」
椅子が倒れる音と、テーブルの上にあったものが飛び散る音、それ聞くと同時に腕を強く掴まれ、そのまま身体は床へと倒れこんだ。








天井に絵が描かれてある。古い宗教画のようだ。天使が飛び、聖母がやさしく微笑んでいるように見える。というのは、半分以上剥げ落ちているからであって、壁画にかつての面影は殆どない。さぞや立派であったろう、そんな天井が見える。埃で汚れたシャンデリアも見える。そして何故か一番手前には、
「何やってんだ、てめぇは」
そういって自分を見る男の顔があった。

「何やってんだ、てめぇは?」
同じ言葉でサンジが聞き返した。
サンジとゾロの距離は、そのままゾロの腕の長さだ。半分乗りかかられた状態である。
「バカが。あのまま倒れてたらもろに頭を打ってんぞ。それ以上悪くなったらどうする気だ」
「…そりゃどうも。頭の心配までしてもらってなんだが、もう大丈夫だから退いてくんねぇか」

テーブルに置かれていたランプがころころ床に転がっている。
ゾロが身を乗り出し、大きく腕を伸ばしてランプを立てた。オイルが少し漏れたのか、炎が一瞬大きくなって辺りを黄色に照らした。
自分の上からゾロの身体がずれた。その隙にと、サンジは腕で上半身を起こしかけたら、またすぐにゾロが元の位置へと身体を戻した。

「…ち、近ぇ…、近すぎるっ!」
ふいに目の前に顔があらわれ、サンジは驚きのあまり後ろに倒れこんだ。最初と同じ状態だ。
ランプの黄色くやわらかい光がゾロの髪と頬を照らし、その額に滲む汗すら輝いて見える。辛そうな表情に変わりはなかった。
ゾロがサンジをまじまじと見た。

「話を聞く気はあるか?」
「…手短になら」
ゾロはかすかに顎を引くと、大きく息を吐き出した。
「すぐに済む。みっつだけだ。ひとつは」
今度は深く呼吸をして、
「俺は」
辛そうに顔を歪め、
「……実は」
額にはぽつぽつ汗が滲んだ状態で、
「……実をいえば、俺は野郎に興味がねぇ。別に女好きってわけでもねぇが、だからといって」
ぎゅっと目を閉ざしたまま、ゾロが声を絞り出した。
「……俺はホモじゃねぇ…」
サンジの喉がごくりと鳴った。
何故、この状況でわざわざそういうことを言う必要があるのか。実はもへったくれもあるかーー!と、怒鳴りたいのを我慢して、サンジは口調を変えた。こういう場合は出来るだけ軽く、雰囲気が重くならないようにした方がいいに決まっている。
「…へぇ。俺もそっちはぜんっぜん興味がねぇんだ。意外と気が合うな。あまりでけぇ声じゃいいたくねぇが、実はこれでもかってくれぇ女が好きでさ、しかも覗きなんか大好きでさ、ちょっと変態かなーって思わないでもねぇんだけど、健全なる男子と…」
ゾロがサンジの口を塞いだ。手でうるさい口をすっぽりと覆う。
「…ぐっ」
呻くサンジをそのままにして、
「ふたつ……っつ…」、どうした訳か、ゾロまで呻いた。
口を覆う手が震え、じっとりと汗ばんでいる。そして、その手を必死ではずそうとするサンジの指先も何故か震えた。
「…俺はさっきからどうも身体が変なんだが、お前、なんか心当たりあるか?」
ゾロに問われ、サンジの心臓が微かに跳ねた。
「…ちなみに、どう変なんだ」
訊くのも怖いが、ここまでくると知らないほうがずっと恐ろしい。
ゾロは無言でそのまま腕を折り、両肘を床につけた。ますます顔が近づいた。
「近ぇえよっ!」
サンジはじりじり後ずさりして、ゾロを押し退けようと、その胸を強く押した。
「な…んだ、これ?」サンジが驚いた顔で呟いた。
「お前、熱でもあんのか?それに心臓が…」
シャツの上からなのに、まるで掌に心臓を握っているかのように鼓動は大きく、ありえないほど早く、そして熱かった。
「……景気よさげで何よりだ」


ゾロの目がサンジを見る。
「…もう一度訊く。心当たりはないか?」
まるで心を覗きこむように、ゾロの鋭い目がサンジを見る。
「返事しろ」
再三問われて、
「…っ」
サンジが思わず視線をはずすと、ゾロが大きく息を吐いた。何故か、表情が少し緩んだ。
「…やっぱお前らが原因か。最初からどうもてめぇは信用できなかったから飯も疑ってかかったが、どうやら奴らを見て気が抜けちまったらしい。こんなつまらん手に引っ掛かるとは」
ゾロの胸をどんと強く押した。
「言っとくが、飯じゃねぇぞ。俺ァ飯にそんな小細工はしねぇ。それにだ、奴らに気を許した結果なら、そりゃてめぇのミスだ。俺にふるんじゃねぇ。それとだな。いい加減、俺から離れたらどうだ?まさか惚れ薬になっちまったってわけじゃねぇんだろ?へっ、てめぇに惚れられてもキショいだけだがな」フンと鼻を鳴らして、「いいから離れろ。どけ!何回も言わせんな!」
喚くサンジの鼻を、何もいわずに摘んだ。
「…はっ、はにゃへ!」
「惚れ薬?誰がてめぇになんざ惚れっか。黙って聞いてりゃ好き勝手抜かしやがって。それに逃げたきゃ勝手に逃げたらどうだ?それが出来ねぇ理由でもあんのか」
鼻を摘まむゾロの手を叩き弾いた。
「それが出来りゃとっくにそうしてる。てめぇなんざ大気圏まで蹴り飛ばしてらァ!足が痺れて動かねぇんだよっ!しょうがねぇだろっ!」
怒鳴ってからサンジはふと我に返った。なにか大変な失敗をしでかしたように感じるのは気の所為か。
「どうりで様子がヘンだと思った。へぇ、足が痺れてんのか」
ゾロが魔獣のようにニヤリと笑った。
「…どうして笑うんだ?言っとくが、レディの守備範囲は海のごとく広大だが、野郎に関していうなら針の穴より狭ぇえぞ。だから、近ぇえって言ってんだろ!怖ぇえんだよっ!そんな目で俺のこと見んな!」

またゾロが呻った。辛そうに顔を歪め、ぎゅっと目を閉ざし、両の拳をきつく握ったまま身を震わせている。
「だ、大丈夫か…?」、さすがに心配になって声をかけた。この状況はともかく、この男が何かに苦しんでいるのは間違いない。しかもその原因はおそらく自分たちだ。
ゾロは数度大きく息を吐くと、また額から汗を滲ませた。汗がランプできらきら光っている。
「…みっつ」
その声もひどく掠れ、
「…実は」
サンジがごくりと息を呑んだ。

「……俺はホモじゃねぇ…」
火事場の馬鹿力とはよくいったもので、サンジの身体は脚も利かないのに、驚くべき速度で後ずさった。
「…おおおおお、お前、少し落ち着け!さっきと同じだ!みっつめじゃねぇ!そりゃひとつめだ!」
何故に同じことを二度もいうのか。
嫌な汗がずっと流れっぱなしだ。けっして部屋が暑いというわけではないというのに。

「…くっ」、ゾロがまた呻る。
「…悪ィ。かなり切羽詰っててな…」
「便所なら我慢しねぇ方がいい」、親切心で教えたが、
「便所で済むなら苦労しねぇ…。さっき2回ばかり抜いたが、手じゃまったく治まる気配が…」
辛そうな顔で言われては、「何が?」と、怖くて聞き返すこともできない。

「…じゃ、ひとつめ」
「……ロロノアさんよぉ、だから今度はみっつめだろ?頼むぜ、ほんとに…、それじゃエンドレスだ…」
サンジは上手く動かない身体を駆使してずりずりと逃げの態勢に入った。それをゾロが押さえ込む。
「…実のところ、俺は」
その表情は磔台に向かう聖職者のようだ。諦念と苦渋、でもどこかに揺るぎない信念のようなものが見え隠れしている、ように見えないこともない。
だが、
「…ホモじゃねぇ」
聖職者も吹き飛ぶような台詞にサンジの目と口が大きく開いた。思わず悲鳴を上げそうになったサンジにゾロが声をかける。
「…いいから喚くのは後にしろ。まだ続きがある…」
そういって、
「ホモじゃねぇ、が…」
「が?『が』、っちゃなんだ!ホモじゃねえなら万々歳っ…ぐっ」、その口を手で塞いだ。
「だから話を最後まで聞け」
手を震わせて、ゾロが絞り出すような声でいった。

「…が、これもアリじゃねぇかって気がしてるんだが…」
「ふぐぐぐぐっ!」
気の迷いだ!サンジはそう叫んだつもりのようだ。が、ゾロに正確には伝わらなかった。
「気にするな?そうか、そう言ってもらえると俺も気が楽になった。それに元はといえばおめぇらの所為だしな。承知したと思っていいんだな?」
安堵に近い溜息をついた。そしてサンジは救いを求めるような目で扉に顔を向けた。
ランプの灯りが届かない、その暗い位置にうっすら白いものが3体浮かんでいる。









「…そう上手くいく訳ないと思ってたけど、これは予想外の展開だわ…」ナミが扉から顔を覗かせ、透きとおった身体でするりと部屋に入ってきた。
「…なんかすげぇことになってんな」
ウソップも恐る恐る顔を出した。
「…まさか、惚れ薬になっちまったとか?」
「というより、興奮剤と精力剤が合わさった感じかしら?テストステロンが異常に分泌されてる?どうみてもそっち系よね」
二人の間からルフィがひょいと顔を出すと、
「あっ!何だあいつ!飯の時間じゃねぇのに、何で奴までサンジに?俺にも食わせっ…」
喚くその口と身体を二人がかりで押さえ込んだ。
「アンタのそれとあの男じゃ意味が違うわ!いいから大声出さないで!」
ナミがウソップに訊ねた。
「…ウソップ、私達に出来ることってあると思う?」
「え?俺たちにか?嫌がらせに、まわりをひょろひょろ飛び回って邪魔でもするか?エネルギー吸おうにも簡単に鼻を掴まれちまうし、他の生きモンは虫や植物くれぇしかまだ無理だと思うが」
「物理的に妨害するのはやっぱ難しいかしら…」
「気合いれりゃサンジくらいならどーにかなるかもしんねぇが、問題はあの男だろ?だいぶきてるからな、俺なんか鼻息で吹き飛ばされるやもしれん。奴らには鼻握られたり蹴られたりされんのによ、世の中って不公平だよな…」

床に倒れこんだ二人を見ながら、ルフィは不思議そうな表情をした。
「アレって、サンジは嫌がってんのか?」
「少なくとも喜んでるようには見えないけど」
「…どうみても顔が引き攣ってる」
「だからなんで?蹴り飛ばしゃいいじゃねぇか。サンジ弱くねぇし」、そういって首を傾げた。
「…や、だから、それが出来ねぇ理由があんだろうさ」
「例えば身体が痺れてるとかね」
「さっきも歩き方がヘンだったしな…」
「何で?正座でもしてたんか?」、何度も首をかしげ、ますます不思議そうな顔をするルフィを見て、
「…ほんと不公平だよなァ。俺ァ、サンジに死ぬまで蹴られるのかと思うと、憂鬱でしょうがねぇ…。ルフィ、おめぇも覚悟しとけ…」
ウソップが大きな溜息をついた。


「ようするに俺たちに出来ることはない。となると」
「そうね。覗き見してるようで心が痛むわ」
「殺されるわけじゃねぇしな」
「でも死ぬ死ぬーってことになったらどうする?」
「…ナミよぉ、嫌なこというなよ…」、ウソップの長い鼻がへなりと萎えた。
「あ、サンジがこっち見てるぞ」、ルフィが無邪気な顔をした。今にも大きく手を振りそうだ。そんなルフィをウソップは小脇に抱え、
「すまん、サンジ…」
拝むように片手を目の前に立て、ナミはルフィの足を抱え、その唇がゆっくりと動いた。
ご め ん ね
声にならない呟きと共に、3体の白いものが扉の隙間からすっと姿を消した。










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2008/10.18