HOTEL RUINS 5








少し縁の欠けたフラスコの瓶底に、透明の液体が溜まった。
幾度も炉過され、抽出された量はかなり少ない。
「飯はあらかた仕上がった。そっちはどうだ?」
サンジが声をかけるとウソップが妙に弱々しく頷いた。
「出来たのは出来た。だが、ちっとばかり自信がねぇ…」、顔に不安を覗かせた。
寄せ集めの材料が不安なんだろう、サンジは考えた。確かに、あんな材料で作ったのだ。端から成功率はかなりの低さである。
「ありゃお前のせいじゃねぇから、あんま気にすんな」
「俺だって気にしたくねぇんだがよ…」ウソップは言葉を濁し、つい数時間前のことを振り返った。


みんなが集めてきた材料は遠かった、予想以上に遠かった。メスカルサボテンはおろか、山サボテンすらなくて代用したのは食虫植物のような形状をした名前も知らない植物だ。蝉の幼虫は見つからず、何やら黒く禍々しい虫をルフィが見つけてきた。もちろん川苔も見つからなくて、替わりはでろでろと怪しい藻のような物体だった。
他の材料にしても、どれひとつとして本と同じ物はなかった。そして、実は製造工程にも自信がない。ルフィが、
「いっぱいあんだからケチケチしないで入れろよ。その方がきっと効き目あんぞ。いいからとっとと作っちまえ」
そういって、ちゃんと量を計ったところに、勝手に材料を足してしまった。
尚且つ、
「それ、入れる順番が違うと思うんだけど」
ナミに指摘されてウソップは気づいた。
「あれ?こっちが先じゃなかったんか?」
どうやら手順を間違ってしまったらしい。もう一度本をみると、作り方の一番下に、『※材料を入れる順番に注意すること』と書かれてあった。こんな大事なことを最後に、しかも何故こんな豆粒みたいな字で書くのか。
ウソップは気づかなかったふりをした。


「…まさかとは思うが、毒薬になったりとかしねぇよな?」
どうにかそれらしき物はできたが、全ての工程を知っているウソップの不安は大きい。
「大丈夫じゃねぇの?おそらくそんな大層なモンは出来ねぇ。出来るはずがねぇ」、サンジが皿を並べた。
「奴の運がとことん悪くなけりゃ問題ない筈だ。もしも死んだら死んだで、所詮はそこまでの男ってことだしな。てめぇらの作ったそんなモンで死ぬなんざ、運がなさ過ぎる。そんな奴を仲間にしたってしょうがねぇ」

サンジはいつも使っているグラスを取り出した。本来ならば、今夜出すワインに相応しく、気品と優美さを併せ持った、とっておきのグラスが棚の奥にあることはある。だが、いくらワインが特別でもグラスまで変えるのは危険だ。
できるだけグラスに注意がいかないようにしなければならない。
せっかくのワインなのに。
アレを出してやるかなど、どうしてそんなことを口走ってしまったのか。
そして、いくらソムリエじゃないにしても、さすがこういう行為は気分がいいものではなかった。
変なことにならなければいいが。サンジはノリで承諾したことに対し、後悔に近いものを感じながら、その液体をグラスの内側に塗りつけ、乾くまで他の作業に取りかかった。
肝心な料理の仕上げだ。
スープを温め直して、皿にはサラダを、そして別の皿に肉料理を盛り付けた。後は各皿にソースをかけるだけだ。サラダソースをかき混ぜていると、
「サンジ、出来たんか?」
ルフィが傍へ寄ってきた。
「…ほんと旨そうだ」、皿に顔を近づけ、今にもよだれを垂らさんばかりである。
「俺も早く食えるようにならねぇかな…。いつになったら戻るんだろ」
ふと、視線を遠くに彷徨わせた。
「この前、懐かしい夢を見た。海の夢でさ、どこまでも広くて、潮のにおいがして、海風がすっげえ気持ちよくて、なのに海に色がついてねぇんだ。もうずっと海を見てねぇし、もしかすると色さえ忘れちまったかもな」
黒い瞳が何もない空間をじっと見つめている。そんなルフィにサンジが声をかけた。
「そんな遠い先じゃねぇよ。心配すんな、お前は将来海賊王になるんだろ?これくらいで泣き言抜かしてんじゃねぇ」
「もちろんだ」
しししとルフィが笑う。そして皿に視線を落とし、サンジに問いかけた。
「お前が昼間採りにいったヤツだな」
淡い黄緑色した野菜だ。きれいに盛り付けられ、まるで皿の上に春がきたようである。
肉の皿じゃなく、サラダに興味を示すとは珍しいこともあるものだ。そんなことを思いつつ、ドレッシングをサラダにかけた。
「沢に生えてた春水々菜や山芹の新芽とかだ。瑞々しくて青くほろ苦く、口の中いっぱいに春の香りが広がるぞ。元に戻ったらてめぇにも食わせてやるから」
「もう味見はしたんか?」
「いやまだだ。このサラダソースと合うはずなんだが」
そういって、サンジはドレッシングのかかった野菜を一切れ口に含んだ。
すると突然キラキラと目が輝き、興味深げにその口元をじっと見つめ、何故そんな目で見るのかと不思議そうな顔でまた煙草を咥えるサンジに、ルフィがニッと笑いかけた。

「なァ、肉味になった?」

その表情は期待に満ち満ちている。


「………肉味?何で?ただの野菜サラダだぞ?肉?…え?」
サンジの口からぽとりと煙草が落ちた。背中が冷水を浴びたようにひんやりと、なのに嫌な汗が流れる。
思わずウソップを振り返り見れば、その黒い目がゆらゆら泳いだ。
「…いや…あのな…こいつがあまりにシツコくてよ。自分で勝手な材料集めてきてな、俺が嫌がるのを無理やり…。無理やりだぞ無理やり!今更何をいってもいい訳にしかなんねぇが、だから俺は悪くねぇ、恨むならルフィだ。それだけは間違えてくれるな…」
…すまなんだサンジ。
視線から目をそむけ、拝むような仕草をして顔面で両手を合わせ、申し訳なさそうにウソップが呟いたのを聞いたサンジの腰はいまにも抜けそうだ。何故か両脚に力が入らない。
「…ド、ド、ドレッシングに、いや…俺の口に、便所大百足が…エキスが?」
「残念ながらそれは見つからなかったからフツーの大百足な。たぶん毒はねぇぞ」
サンジが悲痛な叫び声をあげた。
「て、て、て、て、てめっ!すぐに殺してやるからおとなしく待ってろ!成仏できると思うなルフィーーーー!」
慌てて洗面台へ向かおうとするのをルフィが絡みついて、ぎゅっと抱きついて、必死でしがみつきつつ更に問いかける。
「なあ、肉味になったんか?どうなんだ、サンジ!」
「放せ!」
「だから肉味になったんだろ?答えろよっ!俺にしたら切実な問題なんだぞ!」
「あ、味もなにも…、お前、脱腸蜘蛛だぞ?そんなモンが俺の口に!」、顔面蒼白である。
「いや。その蜘蛛も見つからなかった。だからそこらへんで一番身がころころに肥えた大蜘蛛を」
「ヒイィーーーーッ!」
話の途中で、サンジがまた大きな悲鳴をあげた。

「どうしたの?用意は出来た?もうすぐあの男が来るけど」
ナミが扉をすり抜けて厨房にやってきた。
半泣きのサンジと、そのサンジにしがみついているルフィと、災いを避けるよう物陰に身を隠したウソップが一斉にナミを見た。
「…え?何かあった?」
彼女の表情が不安で曇った。そんなナミに、サンジが笑いかけた。
「大丈夫だよ、ナミさん。もう料理はあらかた出来上がった、すぐに仕上げちまうからさ」

ドレッシングが素早く作り直された。ルフィには眼光を飛ばし、寄らば殺す視線で威嚇して、どうにか完成させた料理を両手と頭の上に乗せた。
「なかなか立派だったぜ、サンジ。おめぇの男気がよ。女に心配かけちゃなんねぇよな」
ウソップが親指をグッと立てると、サンジはその指にがぶりと齧りついた。どうやら両手が塞がっていた為であろうと思われる。
「…てめぇも殺す」
「…狙撃王になってから頼む。死ぬのは指を噛まれるより痛いかもしれんから、目いっぱい手加減してくれ…」








厨房の隣にある部屋だ。
壁はぼろぼろ、カーテンもぼろぼろ。中央に置かれた古く重厚なテーブル、白くまっさらなテーブルクロスだけが、かつての威厳を取り戻したかのように誇らしげに輝いている。
その上に料理が広げられた。
頬を膨らませ、飯を頬張るゾロの正面に腰掛け、サンジは空いたグラスに酒を注いだ。
見る見るうちに、料理と酒が吸い込まれていく。

腹が半分以上ふくれたとき、ゾロは目の前に座る男をちらりと見た。様子がどことなくヘンだ。
あきらかに顔色が悪い。自分に向けられたその顔は、白さを通り越して月よりも青白い。ニコチンが切れたのか、または我慢しているのか、目の前で所在無さげに何度も指先を擦り合わせている。
「おい」、ゾロが声をかけた。
「何だ?飯が旨いって話なら聞き飽きてるが」
「なんでも自分のいいように解釈するな。何でてめぇは食わねぇんだ?」
サンジは返事をしなかった。
やはりどこか具合が悪いのかもしれない。ゾロは空になった酒瓶とパン籠を男に突き出した。
「追加だ」
男が無言で厨房に向かう。その後姿が、これまた心もとなかった。歩くときの歩幅は狭く、しかも脚が上がってない。微妙に頭も揺れているし、何よりも動きがひどくぎこちなかった。脚でも痛めたのだろうか。
そして厨房から戻ると、今度はあからさまな溜息をついた。


爪先からだんだん感覚が失われつつある。
どうにか転ばずに戻ってくることはできたが、もう既に膝から下は痺れたように上手く動かない状態だ。
(…痺れ薬になりやがった)
サンジは頭を抱えたくなった。
試食したときソースの味に変化はなかった。
ルフィが望むような肉の味などどこを探してもなくて、だから気づくのも遅れてしまった。完全なる無味無臭だ。
こういう時だけウソップはいい仕事をする。サンジは目の前の男に気づかれないよう舌打ちしようとしたら、代わりに溜息が漏れてしまった。
手の指は大丈夫だ。下半身だけの痺れなのか、それともこれから痺れが広がっていくのか、その判断は今の段階では難しい。ただ、あきらかに両脚がやられた。
脚の爪先からじわじわと感覚がなくなっていく。おそらく一過性のものだろうが、それでもえもいわれぬ不安がある。自分の脚なのに、まるで他人の脚とすり替わったような違和感、それは恐怖に近かった。



「・・・ぅ」
食事が残り少なくなったときのことだ。突然ゾロが小さく呻いた。
何を我慢しているのか、辛そうにぎゅっと眼を閉ざし、そして拳を強く握り締めた。その拳が微かに震えている。呼吸も幾分荒いようだ。
グラスに残っていた酒を乱暴に一息で飲み干すと、そのままゾロは腰をあげた。
「…悪ィが、ちょっと席を外す」
微妙に前かがみな姿勢で、足早に部屋を出て行った。
(腹でも壊したんか?)
よもや自分の料理じゃあるまいか。サンジの心から別な不安がじわりと滲み出た。まさかウソップが作ったアレが原因か、または単なる腹痛かはわからない。でも、ただひとつ分かっていることがある。
ロロノア・ゾロは全然眠そうじゃない。








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2008/10.6