GO GO HEAVEN! 2








1.蜘蛛の糸で引っ張ってやっからさ。いつの間にやら






ザザザザザザ。腰の高さまで生えている草叢を掻きわけ、ひたすら走る。
ザザッと草を切り裂いて、このまま何処へ向かおうとしてるのか、自分はどうしたいのか、なにもわからずに、ただ闇雲にゾロは走り続けた。
走っているうちに息が切れて、ふと辺りを見渡せばいつしか小高い丘の上にいることに気づいた。
見覚えのない景色だ。だがそれは薄闇だからだろう、ゾロは考えた。
いつの間にか夕陽が地面に沈んでしまった。そこ此処に夜の匂いが漂っている。
草叢に腰掛け、深呼吸のように大きく息を吐きだし、自分の腰に差されたものを確かめた。
和道一文字
くいなが残した刀だ。
つい先日、葬儀が終わった後、ゾロは先生に頼みこんでそれをもらった。
ごろりと寝転がり、仰向けになって天を見上げた。
空の中心はもう真っ暗で、その向こうに宇宙が透けて見えている。遥か彼方で幾千もの星がきらきら輝き、手に握ったものを天に掲げた。
逝ってしまったくいなと、いつも見守ってくれる先生、自分で自分に誓ったこと、そして自分の細い腕、汚れ擦り傷だらけの腕を見て、ゾロは小さく呻いた。
「……っう」
自然と涙が溢れてくる。
止めようとぎゅっと目蓋を閉じても、ぼろぼろぼろぼろ涙がこぼれ、そして耳の後ろを伝って暗い地面に吸い込まれていく。

今日、ある者に試合を挑んで敗けた。
その男は剣士だといっていた。ならばと試合を申し出て、相手にたいしたダメージを与えられないまま自分は腕を負傷した。
もちろん敗けることを前提に戦いを挑んだわけではないが、力の差があまりにも歴然としていて、なすすべもなかった。自分が受けたダメージを100とするならば、与えたのはせいぜい20か30くらいだ。半分にも届かず、差がありすぎる。
鈍く光る刀を見た。
何百回、いや何千回挑んでも、ことごとく自分を突っぱねてきた刀だ。
ゾロは腕で涙を拭った。
拭いても拭いても溢れてくるしつこい涙を、負けじと腕で拭っていたらいつしか止まった。
「……ふん、ざまァみろ」
そしてふと考えた。
もしかすると、いや、もしかしなくとも今の自分が勝てるのは自分の涙くらいではなかろうか。
そう、2千回以上だ。
くいなとあんなにあれだけ戦ったのに、最後までどうしても勝てなかった。もちろん先生は別格だ。そして外からきた剣士だという男にも敗けてしまった。
毎日毎日鍛錬ばかりしている。だがいくら修行したとはいえ、こんな有様で自分はいつか大剣豪になれるのか。くいなに届く日がくるのか。
考えると胸が苦しくなる。
ぎゅっと心臓が苦しくなって、ようやく止まった涙がまた溢れてきそうになる。自分だけが知らなかったことを、現実を突きつけられた気分だ。

なんと愚かな。これで大剣豪を目指そうというのか

今日戦った男にいわれた言葉だ。鼻で嗤われた。
理想を追い求めるのも結構だが、己の器を知ることも大切だ、そうも言っていた。
ふうと大きく息を吐くと、呼吸がそのまま夜空に溶けていく。
いつしか天はすっかり夜になっていて、視界180度に輝く宇宙は果てしなく広く、見ている自分まで吸い込まれそうになる。目を閉じて、ゆっくりと呼吸しているうちに、不思議と指先から闇に溶けていくような気がした。自然と刀から指が離れ、ゾロは生まれて初めて己の存在の小ささを感じた。



「おっと。おぶねぇな。踏んじまうかと」
男の声と同時に、脇腹に激痛が走った。
「うあっ!!!」
ゾロの悲鳴に混じって、男の笑い声がした。
「アハハー、すまん。踏んじまうかと思ったら、やっぱ踏んじまった。避けるの面倒だしな」
そんなところで寝てる方が悪いと、悪びれた様子もなく男がゲラゲラ笑う。
「…っつ…う!!」
腹の痛みを堪え、「…なっ、…なんだてめぇは!!」ゾロは突然現れた侵入者に向かって大声で怒鳴った。なんの気配もなく、忽然と男が現れた。
「なんだと言われてもな。歩いちゃダメなのか?此処はてめぇの土地か?それよりどこだ、此処は?」
男がきょろきょろと周りを見た。自分で自分の居場所がわからないのだろう、もしかすると頭が少々気の毒なのかもしれない。そうは見えないけれど、見た目だけではわからないこともあるだろう。
さらに考えた。空ばっか眺めていて他のことに気を取られていたので、近づいてくる男の気配に自分が気づかなかっただけかもしれない。更に考えた。踏まれたことはともかく、たしかに地面に寝ていた自分にも、多少の落ち度はあっただろう。
「…なんだ、ただの迷子か」
気の抜けた返事をすると男が血相を変えた。
「ああ?俺が迷子だァ?てめぇ…、どの口でそんなことをおちゃらけたことを抜かしやがんだこらっ!!」
般若のような顔でゾロの口を捻った。
ギリギリギリギリと、唇の横を摘まれて捻りあげられ、突然の痛みに目の奥がチクチクする。
「い、い、いいいででえええええええ!」
ゾロが喚いた。
「ふん。痛てぇのは当たり前だ。ふざけたこといいやがって」
「…てめっ!大人のくせに手加減知らねぇのか!痛てぇだろうがチクショー!!」
「なんだ、俺に手加減されたかったのか?生意気そうなツラしてっけど、そういやまだガキだもんな」
そういって、男は胸元からタバコを取り出して咥えた。小さな炎とともに白い煙がゆらりと立ち昇る。
「……ッ、誰が手加減なんか…」
口にしてしまった後悔と一緒に、苦い思いが胸の奥から込み上げてくる。ゾロは獣のように低く呻ると、
「てめぇこそふざけんな!!」
男に殴りかかった。ありったけの力で拳を振るう。腹立ちと苛立ちをこめた一撃だ。すると、
「相変わらずな性格だな。じゃ俺もガキだからって容赦しねぇことにする。手加減なんかいんねぇだろ?俺は男にゃ優しくねぇ。もちろん知ってるよな?」
ヘラヘラと軽い口調で、拳をかるがると避け、男の脚が目にも止まらぬ速さで動き、そのままゾロの身体は宙を舞った。訳がわからぬまま地面に激しく叩き付けられた。瞬きする暇もない、ありえないスピードだ。
一瞬呼吸が止まる。ゴッと喉が鳴ると、口からすっぱい胃液が飛び出た。
理不尽だ。
ゾロは思う。何故自分の身体はこんなにも脆いのか、何故自分はこうも容易く敗けてしまうのか、だから大剣豪になれないのか、それを目指すことすら許されないのか、だからといって何故他人がそう言い切れるのか、自分が望むことを自分で求めて何が悪い、考えれば考えるほど湧き上がる怒りに頭がじんじん痺れるようだ。
ゆっくりと身体を起こし、怒りのオーラを纏いつつ、なおも挑みかかるのを見て、男の片脚がゆらりと上がった。
「…まだやろうってのか。無理して若死すんじゃねぇぞ」




夜風がゾロの短い髪と、そして頬を撫でる。ひんやりと気持ちがいい風だ。
「おい。まだ死んでねぇんならとっとと家に帰れば?飯食ってこい。親が心配してんじゃねぇのか」
男がゾロに声をかけた。地面に倒れたままのゾロの傍らに腰掛け、タバコを燻らせている。
「……うっ、う…せ…」
舌がもつれて上手く動かない。口の周りが血だらけだから上手く言葉にならないのだろうと、拭おうとしたら腕が上がらなかった。腕に力が入らない。だから口のまわりも中も血でいっぱいでどろどろだ。
男はスーツのポケットから布切れを取り出し、血で濡れたゾロの顔と口を無造作に拭き取ると、その布を口にあてがい「ここに吐き出せ。血は飲むんじゃねぇぞ。気持ち悪くなる」そういってゆっくりと身体を抱き起こした。
喉の奥から塊のようなものが込み上げてくる。嗚咽とともに全部吐き出すとかなり楽になった。呼吸もちゃんとできる。最後に男は自分のシャツでゾロの口元を拭った。
「……チクショー…」
悔しさに何もかもがぐちゃぐちゃになって、心と身体がはち切れそうだ。
「…敗けてばっかりだ…。だけど…もう…もう…敗けねぇ…、敗けちまったけど、誰にも俺の邪魔はさせねぇっ!神にも仏にも祈らねぇ、俺は俺しか信じねぇ!もう敗けねぇからっ!」
草叢に寝転んだまま、天に向かって大声で叫ぶと、また自然と涙が溢れてきた。ぼろぼろぼろぼろ零れ落ちる涙を拭う体力さえ残されていない。ただ流れるままだ。
「お前さ、昔もそんなようなこと言ってたっけな」男がいきなりゲラゲラと大声で笑い出した。
笑われたことにムッとしながら、
「…昔?」
訊くと、その問いを無視しては男は地面から何かを拾った。ゾロの手から落ちてしまった刀だ。
「大切なもんなのか?」
誰のものかとは訊かずに、大切なものなのかと男が問う。青い眼で刀をじっとみている。
小さく頷くと、
「なら見失わねぇようにしろ」
「……わかってる」
手渡されたものをギュッと掌に握り締めた。


「……お前、誰だ?」
改めて見れば見覚えのない顔だ。ここらへんで金髪は珍しいほうだ。そして、そのすらりとした姿態といい、何より巻いた珍妙な眉毛といい、かなり人目を引く風貌ではあるが、自分の村でも回りの村でも見かけた記憶はなかった。
今夜のお月さまのような金色の髪、頭上できらきらと光が弾けている。
「コックだ」
「コック?」
「お前さ、ガキでも根っから戦士なんだな。ボロボロのくせに噛みつくような目で戦いやがってさ」
「……慰めてるつもりか?」
ゾロがぎゅっと刀を握り締める。自分の拳は一度も男に当たらず、それどころか掠りもしなかった。今日剣士に敗けたのが軽く吹き飛んでしまうくらい、いっそ潔いくらいに完敗もいいとこだ。それでも、とゾロは奥歯を食い縛った。
「…今日は勝てなかった……だけど、だけどいつか…」
悔しくて悔しくて、悔しすぎて気持ちが言葉にならない。また涙が溢れてくるだけだ。そんなゾロの額を男が容赦なく叩いた。
「…痛っ!」
「あたりまえだ。ざけんな。ガキのお前に負けたら俺はどうする?洒落になんねぇぞ」
そういってまたゾロの額を小突いて、
「それに誰がてめぇなんざ慰めっかボケ。たんに俺とお前じゃ戦うスタンスが違うといいたかっただけだ。俺はコックだから戦いそのものに意義は見出せねぇ。ただ守らなきゃならねぇものを守る為に戦うだけだ」
男はタバコの煙を空に飛ばした。白い煙が天に昇っていく。
「コックだから?」
「コックだからだ。俺は自分の職業を誇りに思っている。お前は剣士だろ?どんだけ敗けても前を見ろ。背を向けるな」
髪が黄色い月光みたいにキラキラしてる。そんなことを考えながら、夜空に消えていく煙を目で追った。




「さて、そろそろか」
男が腰をあげた。
「何処へ行く?帰るのか?」
何気に訊くと、男はすっと腕を伸ばして天を指差し、ニッと三日月のように笑った。
髪がますます金色に輝き、それが眩しくてゾロは目を細めた。
「まさか月へ?」
不思議そうに夜空を見上げると男も一緒になって顔を上げた。
「先に行ってるから」
その頭上で星がひとつ流れる。
「…ほんと、こんなとこでこんなことしてる場合じゃねぇんだよな…。なんで寄り道するはめになっちまったんだが…。ガキ相手に俺にどうしろと?これにも意味があんのか?ったく最後の最後まで喧嘩しちまったじゃねぇか。勝ったからいいようなもの負けたら洒落になんねぇし、しかも自慢にもなりゃしねぇという。なんの試練だ…。こっちの世界は時間もクソもあったもんじゃねぇ。なんでもアリかよクソッタレ」
ぶつぶつと意味のわからないひとりごとを言って、
「あ、でもお前はきっと下だよな、下」
いきなり何を思ったか、男は楽しそうに地面を踏みならした。釣られてゾロも地面を見た。もちろんただの暗い地面しかないし、何から何まで訳がわからない。それでも男が話し続ける。
「ということは、バラティエのやつらもみんな下だろ。ジジイは絶対地獄行きだ。賭けてもいい。あれで天国に行けるわけがねぇ。しゃあねぇ、俺が先にいって上から蜘蛛の糸でまとめてすくいあげてやる。てめぇらの日頃の行いが悪いから俺まで苦労すんぜ。あ、ちゃんと助けてやっから大人しく昇ってくるんだぞ。喧嘩すると切れちまうって噂だかんな」
何が可笑しいのかひとりでケラケラ笑ってまた天を見上げ、ゾロが一緒になってまた顔をあげると、
「いってくる」
声と同時に、突然男の気配が消えた。

何処に姿を消したのか。まるで魔法のように男の姿が消えてしまった。きょろきょろ辺りを見渡すと、ザザザザザザザザッ、いきなり強い風が吹いて、草叢を波のように揺らした。
細かい砂埃が撒き上がる。ゾロはごしごしと目を擦ってまた夜空に視線を向け、いつしか真上まで昇ってきていた月に目を瞬かせた。シャキーンと黄色く冷たい、レモンのような三日月だった。




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2010.07.14