2.蜘蛛の糸で引っ張ってやっからさ。いつの間にやら上書きされた過去の記憶をぶらさげ、





灰色の雲の隙間から黄色い光が反射している。昼近くなってようやく天気が回復してきた。
ウソップは甲板に出るなり確認するように空を見上げ、肩に担いだ荷物をゾロの元へと運んだ。
座ったまま、ゾロはずっとひとりで何かをやっている。手元からシュッシュと擦れるような音が聞こえ、
「よお」
ウソップが声を掛けると僅かに目線を上へとあげた。
「持ってきてくれたのか。すまん」
「ついでだからなんてこっちゃねぇが、……あ、また砥いでんのか」
「いや、小さな錆びがな」
そういってまた手を動かした。ゾロが砥いでいるのはこの船の料理人だった男の包丁だ。
ウソップは唇をぎゅっと噛むと、口がだんだんへの字に下がってしまった。
我慢した。やせ我慢といってもいいだろう。いっそ泣いたほうがすっきり楽なんじゃないかと思えるような、なんでここで我慢する必要があるのかとか、自問自答したくなるような男の我慢だ。
ゾロが顔をあげた。
そんなウソップを見て、「お前、すごくヘンなツラしてんぞ。泣くんだか笑うんだかハッキリしろ」、そういって包丁の砥ぎ具合を確認した。刃に曇りがないかどうかひっくり返しながら、何度も丁寧に確かめている。その様子をみて、今度は溜息に似た息がこぼれた。
「……なんだろうな……おめぇがそうやってサンジの遺品を扱ってるのを見ると、俺はなんか胸がチリチリしちまって…、こういう気持ちってなんて言うんだろうな…」
ついに目頭が決壊したのか、ウソップは腕で乱暴に顔を拭った。
「仲がいいんだか悪いんだか最後までわかんなかったけどさ、やっぱ仲間なんだなァって…。おめぇに人並みの愛情があるともおもえなかったが、それでもそうやってサンジの残した物を大切にしてるのをみると…」
「愛情?」
ゾロが不思議そうな顔をした。
「違うのか?」
ウソップも不思議そうだ。
「違うだろ?」
「いやいや犬猫でもあるぞ、愛情くらい」
「そうか。だからなんだ」
「だからなんだといわれても。ようするに、おめぇのその行為も、愛しい人が逝ってしまって…、ん?愛しい?なんか口がむずむずするな。まあいいや。その残されたものを大事に、大切にしたいと思う気持ちが愛情なんじゃ…」
すると、
「……お、大人しくいわせとけば…」
ゾロが大声で怒鳴った。
「やめろっ!!変な解説すんなっ!!」
長い鼻先に研いだばかりの刃先を突きつける。かなりの嫌がりっぷりだ。
「刃物の先を人に向けてはいけませんて、死んだかあちゃんがいってたぞ!」
「それじゃ剣士は勤まらねぇんだっ!」
「まったくそのとおりだが俺はサンジじゃねぇ!」
ウソップが怒鳴るとゾロはふんと鼻を鳴らし、包丁に曇りがないかどうか確かめ、そして布で丁寧に拭き取った。



「わかってる」
低い声だ。思わずウソップが訊き返した。
「何が?」
「自分でいったんだろうが。だから、別に一緒にしたつもりは」
「あ?いやいやいや、違うぞ?俺はサンジじゃねぇからおめぇらのようなハードな喧嘩は無理だと、そういいたかっただけで」
ゾロは研いだ包丁を布に包み、また鼻を鳴らすと、
「喧嘩なんざしねぇのがいいに決まってる」
そして包んだものをウソップに差し出した。
「俺?いや、これはおめぇが持ってるべきだろ」
「いらん」
「なんで?」
思い出が欲しいわけではない、そういってゾロは砥石やらを片づけを始めた。



次の島でゾロは船を降りる。
レッドラインから世界の海を自由気ままに進んでみたいと、先月本人から申し出があった。だがそれはゾロに限ったことではなく、ロビンはもう既に船を降りてしまっていて、ナミやチョッパー、そしてウソップやフランキーもそれぞれ次の進路が決まっている。
サウザンドサニー号の船長が海賊王になり、ワンピースとともに世界は大きく変わった。なにも言わず、穏やかな顔で別な世界に旅立ち、その1年後にコックが逝ってしまった、約半年後の話だ。
この船は仲間をひとりづつ希望の地へと降ろし、見送ってまた次なる海へと向かっている。それは終わりの海であり、ある者にとっては始まりの海と大地だ。

「そんだけか?」
思わず訊いてしまうくらい、ゾロの纏め上げた荷は少なかった。ウソップが運んできた荷物の中から最低限のものだけ抜き取り、後はほぼそのままだ。
「食い物は?」
「酒があるからいんねぇ」
「いや、少しくれぇ持っていった方がいいんじゃねぇか?」
「じゃ腹に入れてく」
そういって、ゾロはパンとチーズをその場で齧り、酒で腹に流し込んだ。
「着替えは持ったんか?」
ウソップが訊いた。そんな余計な心配をしてしまうくらい荷が少ない。
「大丈夫だ。持った」
「何を?」
「着替えと」
「着替えと?」
「腹巻きと」
「腹巻か。何枚持ったんだ?」
「3枚くれぇか。それとパンツ」
「何枚?」
「1枚」
「はァ?1泊の旅行じゃねぇんだ。も少し持ってけ」
「必要ねぇ。3日目あたりで裏返せば」
「アホかっ!」
ウソップが呆れ声で怒鳴り、そして別な荷からパンツを数枚掴むと、
「大剣豪のくせに、ちったァ身嗜みに気ィつけたらどうだ。パンツ裏返して履いてると知れたらファンが泣くぞ」、ぶつぶついってゾロの荷物に無理やり押し込んだ。
「アホ。どこにファンなんか…、あ、こら、勝手に突っ込むな!パンツなんかいらん!」
「おめぇがアホだ!世の中どこにどんな物好きがいるかわからんのだぞ!それに、ふらふら歩き回ってドブに足突っ込んで怪我して病院運ばれ、そこの看護婦に『あらまあ、この人のパンツ…』ププッって笑われたらどうすんだ!」
麦わら一味の名折れだ、そういってウソップが口から唾を飛ばすと、
「なんだそら!?いらん心配すんなっ!!」
ゾロが呆れながらも大声で怒鳴った。


ぶつぶついいながら、それでもウソップが入れたパンツはそのままにしてゾロは荷作りを終えた。
「やっぱ持っていかんのか?」
甲板で胡坐をかいたまま、ウソップが問いかけた。その手には布で覆われたものが握られている。つい先程までゾロの手にあったものだ。
「…ったく、なんでもかんでも持たせようとしやがって」
「おめぇはさっき思い出はいらんとか言ってたが、生きて人と係わっていけば、良いにつけ悪きにつけ勝手に思い出はできていくぞ。大切にするかしないかとか、忘れちまうのも個人の自由だが」
ウソップの真面目な表情に、ゾロがふぅと大きく息を吐いた。だが溜息というわけではなさそうだ。その表情は穏やかですらある。
「いや、俺は遺品とか、そんなのはいらんと言いたかっただけだ。料理するわけじゃねぇのに、ただ思い出を持ち歩きたいとはおもわねぇ。包丁は使ってこそ価値がある。てめぇの嫁さんにでも使わせたらいい。プロ仕様だから悪い品じゃねぇはずだ」
神妙な顔をするウソップに、ゾロは話し続けた。
「俺の刀だが。昔は違う刀だった。海賊なってから、いやなる前か、1本はくいなという剣士の物だった。天国にいるくいなの元に、俺の名が届くように大剣豪になろうとその時決めた。だからと形見に誓ったわけでも、ただ形見が欲しかったわけでもねぇ」
「そうか。あんまらしくないが、いい話じゃねぇか」
しみじみと頷くウソップに、ゾロは幾分不満気な顔をした。
「ようするに思い出より実用性だといいたいわけだが、らしくねぇとはどういう意味だ?」
「別に深い意味はねぇ。ちなみにカヤの悪口いうわけじゃねぇが、いくら医者になったとはいえ元がお嬢様育ちだからそういうのは無理だぞ。包丁が使えるかどうかも定かではねぇ」
「ならばナミにやったらいい。さすがにタダなら文句はいわねぇだろ」
「……ナミか。……いや、俺はかまわんが、すかさず売り飛ばされそうな…。『レア!なんと、あの麦わら一味のコック愛用品!』なんて……」

ゾロは忌々しげに舌打ちして、布で包んだものを無理やり荷物の底に押し込んだ。
「…ったく、使いもしねぇのに…。がさばってしゃーねぇ…。どうしてくれよう…。パンツより邪魔だ」
ぶつぶつ文句をいっている。その様子を見て、ウソップがニヤニヤ笑った。
「なに笑ってやがる?」
「いやさ、文句いいつつなんか楽しそうだと思ってさ」
「どこが楽しそうに見えるってんだ」
若干荷物が増えて納まりが悪くなったのか、また出したり入れたりしている。小さな荷物がちょっとだけ膨らんだ。
「何事も思いどおりにいかねぇのはサンジで経験済みってわけか?アッハハハ…、アッ、アッ、アッ、あぶねっ!!!」
「鼻が短くなりてぇのかウソップ」
「何回も言うが目の前で振り回すなっ!嘘じゃねぇだろうがっ!」
「だからっていちいち言うのはどうかと思うぞ!おもいきり余計なお世話だっ!!」



「よし」
纏め上げた荷物の横に刀をおいた。ゾロは下船の準備が整ったようだ。
「さすがにこの船で寄航するわけにゃいかねぇから俺が島まで送ってく。新作が出来たばかりだとフランキーがいってたな。もしかするとそれかな?」
ミニメリーとかその類の小船だろう。ゾロが小さく頷いた。
「いろいろありすぎて、ここまでが長いんだか短いんだか、あっという間のような気もするがなんだかよくわからん」
海を見ながらウソップが呟いた。
シロップ村を出てからもう7年の歳月が経っている。その間にあったことを思い出すには、あまりにも思い出が多すぎた。
楽しかったことや辛かったこと、面白かったことに怖かったこと、失ったものも手に入れたものも、腹を抱えて笑ったことや、そして声を枯らして泣いたこと、それらがみんな思い出になって、いつか薄れてしまう日がくるのだろうか。
「過ぎればなんでもあっという間だ」
「アハハ、ちげぇねぇ」
ウソップは笑って長い鼻先を揺らした。
「俺は」
そして座ったまま胸を張る。ピンと背筋を伸ばして、
「海の戦士だ」
長い鼻を自慢げに空へと向けた。
「それはそれは苦労した。したなんてもんじゃねぇ。そこまでの道程は果てしなく長く、挫折と絶望の繰り返しだった。それこそ何回やめようと考えたことか。自慢じゃねぇがいつもやめる理由と自分へのいい訳ばっか考えてたぞ」
「そうか」
ゾロも空に向かって顔をあげた。
「だからこそ、それを成し遂げた俺は俺の誇りだ。俺は俺を心から尊敬する。とても自分とはおもえんくらいスゴイ、偉い、俺は本当に頑張った。だから」
ウソップがニッと笑った。
「俺が船を降りるときは、胸を張って堂々と降りるんだ。そして大地を踏みしめる」

「おめぇにはそれが相応しいだろうさ。そうかイーストブルーまで戻るんだったな。そこまで付き合えねぇのが残念だ」
甲板で胡坐座りのまま空を見上げる。ゾロが穏やかな表情だ。
「ま、別に今生の別れってわけでもねぇしな」
「それもそうだ」
傍らに置いた刀を手にした。ギュッとその手に握り、目線の高さまで刀を掲げ、
「挫折というか、俺も似たような経験がある。あの時は」
するといきなり眉を顰め、そのままゾロが口を閉ざした。

ザッと気持ちのいい風が甲板を駆け抜けていった。すっかり晴れ上がった群青色の空に、黄色い太陽が輝いている。
「どうした?」
黙ったままのゾロにウソップが話しかけた。
「…いや」
「ん?」
「なんだこれ…?」
「なんだって、なにが?」
訊いても、
「…違う。…いや、やっぱり違う。何故だ…?」
要領を得ないことしかいわない。ずっと渋い顔で考えごとをしている。
「おい?」
もう一度声を掛けると、今度は不思議そうな顔でウソップを見た。
「……記憶が変わっちまうことはあるか?」
「記憶が変わる?思い違いしてたってことか?」
「いや。なんていったらいいか…。そこにいるべきはずがないのがいて」
「いて?」
「変わったというか、変えられちまったような…」
「ような?」
ウソップがますます首を傾げた。

心が折れかけたことがある。
自分で決めたことを全部投げ出したくなった。
空の星はあまりにも遠く、いくら手を伸ばしても、遠すぎて全然手が届かない。これからもずっと届かないんじゃないかと思ったことがある。
それを何もいわずに見守っていてくれたのがコウシロウ先生と、いつもと変わらぬ道場の仲間たちだ。自分で気づくまで、成長するまで先生はずっと見ていてくれた。そしてそれなりに時間がかかったのも確かだ。ろくに思い出したこともないくらい昔の記憶だが間違ってはいないはずだ。
本来の記憶に別の記憶が重なった。
時空をひらりと乗り越え、なんの遠慮も気遣いもなく、自分の記憶を変えてしまった男がいる。

「……あの馬鹿が…」
ゾロが自分の短い髪を掴む。大きな手で頭をすっぽりと覆い、まるで頭を抱えているように見えないでもない。
「どうした?」
「……いや」
そして、俯いたまま、
「おい?」
返事がない。
「…腹でも痛てぇんか?チョッパー呼ぶか?」
もう一度訊くと、
「……すまんウソップ。少しだけ席を外してもらえるか…」
「え?」
俯いたまま頭を掻き毟り、その大きな手でゾロは静かに目と額を覆った。

ひとりにしてくれ。そういう意味だろうと口を閉ざしたゾロをそのままに、ウソップが立ち上がると舳先からナミの声が聞こえてきた。高く大きく、よく通る声だ。
島が見えたという。
そしてその遥か向こう、水平線の色を変えるかのように、赤茶色のレッドラインが蜃気楼のように現れた。





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2010/07.30