5.王子の手の中には、美しいガラスの靴がひとつ
お城の大きな階段、その前で馬車は止まりました。サンジが乱暴にドレスをたくし上げて馬車から降りますと、馬がブルルンと嘶いて、たてがみを大きく振りました。
――さてと。
ボキボキッと指を鳴らして、
――蹴り殺しに戻るとするか。
サンジは来たばかりの道を睨みつけます。
もうかぼちゃの馬車なんかいりません。どんなに立派な馬であろうと、途中下車も出来ないほど役立たずなのですから。所詮はネズミです。脳味噌は小匙1杯より少ないに違いありません。そして自分には強靭な脚があります。走って走って、馬車にも負けないくらい早く走って、あの男を何処までも遠くに蹴ることができる脚があります。
早く家に戻らねば。くるりとドレスの裾を翻しますと、いきなり背後で声がしました。
「ようこそおいで下さいました」
恐る恐る振り返れば、昨夜の男です。
もしやずっと此処で待っていたのでしょうか。実に絶妙なタイミングで声をかけられました。そして光のドレスを見るや、
「なんと。昨夜にも増してお美しい…」
おお、と感嘆の声を漏らしました。
心から感心した男の様子に、サンジの頬と耳がカッと熱くなりました。
もうなんといってよいか、生きているのが嫌になるくらいです。そんな褒められ方をしても全然嬉しくありませんし、男である自分がこんなドレスを着ていることが、ただただ恥ずかしいばかりで、むしろ、穴でもあったら入りたい気分です。
「おや。頬が薔薇色になってらっしゃる。困らせましたかな?」
男が優しく微笑みますと、サンジは今なら気を失ってもいいと思いました。気を失ったほうがマシです。
ここまで誤解させておいて、どうしていまさら自分が男だと言えましょう。
大広間は夕べのように光が溢れかえっておりました。
色鮮やかに着飾った蝶が、自分のように紛いものでない本物の蝶々が舞っています。涙が出そうなほど美しい光景です。
男はサンジの手を取って、王子の元へと誘いました。
「…また性懲りもなくきやがったのか」
王子はしかめっ面でサンジを迎えました。
男に促されるまま、ホールの中央へと二人が向かいます。
王子はサンジの腰に手をあてて、その手を取りますと、
「……また俺が女の方か…」
かなりげんなりした様子で、溜息混じりに呟きました。
「オカマがなにを抜かす」
「もういい加減オカマ呼ばわりはやめろ。文句があんなら俺にかまうな」
「ボケ。文句いうなら、てめぇこそ来んな」
「好きで来てると思ってんのか?バカが、少しは頭を使って考えてみたらどうだ。俺がこんなに嫌がってんだぞ」
また馬鹿呼ばわりされて、王子の眉がピクッと持ち上がりました。
「…ドレス着てなに威張ってやがんだ、この阿呆めが」
オカマに頭を使えといわれ、どうも納得がいきません。本当に嫌ならば舞踏会など来なければいいのです。ですが、この男がいなければ、自分は化粧臭い女と踊らねばならないのも現実です。
妙なジレンマに、王子はムスッとした表情でターンしますと、まるでそこに太陽が落ちてきたかのように、光の結晶がぶつかり合ってキラキラと音を立てました。どんな綺麗な宝石も、そのドレスの前では色褪せて見えたことでしょう。
楽隊の奏でる音に合わせて、二人が踊ります。
ドレスはキラキラと光りを放ちながら弧を描き、その輝きと美しさに、周りの者は皆感嘆の声を漏らしました。
ですが、王子の目は別なものを捉えてました。
「何でそこが膨れてやがる?」
ふっくらと形良くふくらんだ胸、まじまじとその胸を凝視しました。昨夜もそうだったのか、どうも思い出せません。そして所詮は男同士ですので、王子の目線にも言葉にも遠慮というものがありませんでした。
「…いや、これには深い事情が…。あーもう、いいから見て見ぬふりしろ」
思わずサンジの方が目を逸らしてしまいました。
事情もなにも、『魔法使いの杖で胸にパットを入れられた。うっかり取るのを忘れただけで、断じて自分の本意ではない』、いくら真実とはいえ、こんな説明を一体誰が信じるのでしょう。少なくても自分なら信じませんし、ただそういう趣味なんだろうと思うだけです。
恥の上塗りともいえるこの状況に、サンジが顔をそらして歯軋りしてしておりますと、王子は、
「ふん」
と、一回だけ鼻を鳴らして、そのまま無言で踊り続けました。
広間の中央が昼間よりも明るく輝いています。
ドレスがふんわり広がると、光が集まってきます。白や黄金色、眩く美しい光りに、二人はすっぽりと包み込まれました。
こんなに、この世のものとは思えぬほど美しいのに、相手は王子で自分はドレスです。
サンジはくるりとターンした後、ふうと深い溜息を漏らしてしまいました。
「……、このやろ。俺と踊っててつまらなそうな面しやがって」
王子がサンジを睨みつけました。
ですが、それは無理というものです。もともと女装の趣味なんかないのですから、たとえ相手が王子じゃなくとも、ドレスを着ていて楽しいわけがありません。
「じゃてめぇは楽しいんか?男と踊ってて楽しいか?楽しけりゃ笑え、クソハゲ。ほら、笑えってば」
すんでのところで、王子は目の前の男の首を絞めそうになってしまいました。よくぞ我慢したと、我ながら感心する程の忍耐力です。
そんな王子の気持ちも知らずに、
「せめて、てめぇがナミさんだったら…。俺はドレスだって厭わねぇのに…」
ぼそっと呟きました。
「ナミ?」、思わず聞き返しますと、
「オレンジ色の髪をした、すっげえ可愛いレディがいったろ。あれがナミさんだ。いっとくが、くれぐれも手を出すんじゃねぇぞ。どうせ相手にされねぇだろうが、絶対に手を出すな」
サンジは王子を威嚇しました。彼女だけは手を出されまいと彼なりに必死です。
「あ、あれか」
王子は何かを思い出したようです。
「イガラムが『女を誘えー誘えー踊れー』ってうるせぇから、一番近くにいた奴に声かけたらあの女だった。あのアマ、俺から金を取ろうとしやがったぞ」
「嘘こけ。ナミさんがそんなことするわけねぇ」
「嘘なわけあっか。無論断ると『ケチね。あんたなんかオカマと踊ってりゃいいのよ。お似合いだわ』ってゲラゲラ笑った挙句、すっげえ派手なオカマを俺に押し付けやがって、そのすごさといったらもう、おめぇなんか足元にも…」
王子の言葉を遮るように、
「あーあーあーーーー、聞こえねぇ。あーーー、もう全然聞こえねぇ。ナミさんがそんなこと言うわけねぇし!」
サンジは両手で耳を塞ぎました。
そんなサンジをくるりと回しますと、
「今日は昨日みてぇにひぃひぃ泣かねぇんか?『ひーーっ!』って顔を赤くして白目剥かねぇんかよ?」
耳元でそっと王子が囁きました。その耳には、真珠が零した涙がきらりと光りながら揺れています。とても美しいイヤリングです。
「あんな面白ぇのは滅多にみられねぇ。そういった意味じゃ楽しかった」
ニヤニヤ笑う王子に、
「…へぇ、そうか。楽しんでもらえたんか」
サンジはかろやかな足捌きで、ドレスをふんわり膨らませ、そして誰にもわからないようにその足をギュッと踏みつけました。ギリギリギリッと、強烈な捻りを数回入れたのは故意のようです。
「うっ…」
王子が唸ります。
「…よくも踏付けやがったな」
「アハハ、すまん。慣れねぇもんでさ。でもちょっと脚がぶつかっただけだろ?そうか、乳母日傘で育った奴にはきつかったか。悪ぃ。アハハハ」
楽しそうに笑いますと、王子は引き攣った笑顔で、サンジの腰を強引に抱き寄せました。
「……死ぬ…」
上半身がありないくらいググッとそり返り、今にも腰が折れそうです。サンジが呻きました。身体が硬いわけではありませんが、くいきなりこんな曲芸じみたことは無理です。コルセットを付けていなければ背骨が一気に2〜3本やられたかもしれません。腰を抱かれていなかったら、もしも手を繋いでなかったらば、確実に後ろにひっくり返っていたでしょう。
「…てめぇ、なんの嫌がらせだ」
サンジが睨み付けますと、王子は楽しそうに笑いました。
「嫌がらせ?なんのことだ?」
踊るふりしてまた脚を蹴り上げますと、
「…っう」
王子の顔が苦痛に歪んで、そして腕の中の腰を強く引き寄せるとサンジが仰け反って呻きました。
「…おめぇこそどういうつもりだ」
「…いけ好かねぇやろうだと思ってたが」
「そりゃお互い様だ…」
それからというもの、二人は互いに、見てるものにわからないような巧妙な攻撃を、相手に仕掛けました。
「…って。…クソが。王子だと思って人が下手にでりゃ付け上がりやがって…」
サンジは背骨や腰にダメージを受けました。背骨がミシミシします。
「…いつてめぇが下手にでた?寝言ほざくんじゃねぇ」
王子の脚はもうボロボロです。服に隠れて見えないものの、実は青タンだらけでした。
「おい。パットとやらがずれてるぞ」
王子が胸をみて左右対称でないことを指摘しました。
「マジかよ…」
いわれて見れば、確かに片方落ちかけてます。暴れていたからでしょう。
そしてサンジは落ちかけたパットを王子の身体に摺り寄せました。上から下へと、互いの胸をググッと擦りつけ、上へ上へとパットを持ち上げます。
「だあああ!気色悪ィ!なにしやがんだ、このオカマがっ!」
王子が怒鳴りますと、
「我慢しろ!露骨に手で上げられっか!胸が腹にあったらみっともねぇだろ!」
もちろんサンジも怒鳴り返しました。
「いいや。てめぇの存在自体がみっともねぇ」
「そのみっともねぇ奴と踊ってる奴も、相当みっともねぇ」
王子とサンジの額にはくっきりとした血管が浮き上がってます。互いに顔を近づけて、目から青い火花を撒き散らしました。
サンジは蝶のように舞って足を蹴りつつ、王子は強く抱き寄せてサンジを苦痛で呻らせ、それを皆に気づかれないようにするのですから大変です。二人の額には汗が滲んできました。
ですが、楽しい時間は短いものです。限りある時間を惜しむように、二人がこの上なく真剣に踊ってますと、時間は瞬く間に過ぎてしまいました。サンジは蹴るのに夢中で、12時15分まえの知らせを聞きのがしてしまったのです。
気づいたのは、12時を知らせる大きな時計の音でした。
ボーーンとひとつ、大きな広間に、低い時計の音が鳴り響きました。
「てめぇ、また逃げる気かっ!ふざけんな!勝負はまだついてねぇ!」
王子が血相を変えてサンジを追いかけます。
「しつけぇ!しつこい野郎は女に嫌われっぞっ!」
ボーーンと3つめの音が響きます。
「だああああ!てめぇなんざかまってる暇はねぇっていうのに!」
ドレスをたくし上げて走るサンジを、
「誰が逃がすかっ!ぶっ殺す!」
王子が必死で追いかけます。
時計の音は4つめです。
お城の大きな階段を、サンジは飛ぶよりも速く駆け下りました。そして目の色を変えて王子がまだ追いかけてくるのを知って、おもむろにガラスの靴を脱ぎました。
光り輝くガラスの靴。そして、その脱いだ靴を、
「ああもうマジでしつけぇ!」
大声で怒鳴りながら、
「これでも食らえっ!」
王子に向かって、ものすごい勢いで靴を投げつけたまま、逃げるようにその場を後にしました。
顔面を押さえて立ち止まり、王子が苦痛の声を漏らしました。ぽたりぽたりと、その指の間から、赤いものがこぼれていきます。
その額には、ダイヤモンドのよりも硬質なガラスで作られた、細いヒールが刺さっていました。
「………っ」
走り去るサンジの後姿を、王子はひとり階段で見送ります。
光り輝くドレスはもうすっかり小さな点となって、夜道を照らす蛍のようです。その蛍もすぐに消えてしましました。
もう何処にも、何も見えません。
それでも王子は立っていました。いつまでもいつまでも、その姿が何処にも見えなくなってしまっても、彼は唇をギュッと噛み締めて、額から血をだらだらと垂れ流し、血管をクッキリと浮き上がらせたまま、その場所に動こうとしませんでした。
仁王立ちといっても過言でない姿で、その目は暗い闇を見つめ、そしてガラスの靴がひとつ、王子の手に残されたのでした。
すみません、つづきます
2009/09.21