13.「あったけぇ……」と、まるで温泉にでも入っているような
重くて大きな鍋を5つ磨き終えると、さすがに腕がだるくなってきました。そろそろ後片付けも終わりです。サンジは肩のコリを取るように、数度回しながら厨房の外へと向かいました。
秋から冬に移り変わるにつれて空は低い雲で覆われ、毎日薄ぼんやりした陽しか差しません。そんな寒々しい空に向かって、サンジは白い煙を吐き出しました。仕事の後の一服です。
「料理するやつが煙草なんざ吸いやがって…。バカめが、舌が鈍る」
そこへ高い帽子を被った料理長がやってきました。
「身体だけじゃなく舌も鍛えてあっから。余計な心配すんなって」
サンジが返事しますと、
「ふん。誰がてめぇの心配なんぞするか。勘違いするな」
そういって料理長は空を眺め、青い目を少し細めました。天気の様子でも見ているのでしょうか。彼は午後から本拠地であるレストランへと旅立ちます。そこはとても遠くにあるので、行けば2ヶ月くらいは戻ってこられません。
今にも雪が落ちてきそうな、白と灰色の混じった冷たい空です。
そんな空を見上げ、
「イーストブルーもこれから冬か?」
サンジが何気に問いかけました。
「そうだ。だがあそこは此処みたいな寒さはねぇ比較的穏やかないい海だ。てめぇは行ったことねぇのか?」
「ない」と返事をして、タバコの煙をまた空へと吐き出しました。
「実はこの国から一度も出たことねぇ」
煙が空に消えていきます。
「今じゃ、あの銀杏よりも向こうにゃ出かけたことがねぇ有様だ。もともと広くもない世界がすっかり小さくなっちまった。この城は無茶苦茶でけぇけどな」
それを聞いた料理長はふんと鼻を鳴らし、立派な良さ毛を数度撫でると近くの石垣に腰掛けました。義足がコツンと硬い音を奏でます。コツコツと石畳を2度叩き、そしてもう一度フンと鼻を大きく鳴らしました。
「だからなんだ?そんな奴らは世の中ごまんといる。それにお前は王族になったんならこれから他国に行く機会もあんだろうさ」
「王族?騎士団と一緒にお出掛けってやつか。なんかピンとこねぇ…」
サンジが苦笑いをしました。きっと王族専用の馬車や、あるいは豪華な船で兵隊達に守られながら他国に出向くのでしょう。そんな自分はまるで自分ではない、まったく知らない他の誰かみたいです。
空一面を覆う白や灰色のどんよりした空、ピューと冷たい風が顔や身体から体温を奪っていきます。
「…っ、さみぃ…」
サンジがグスッと鼻を鳴らしました。その様子を見て料理長は小さく舌打ちしました。
「バカが。頼まれもしねぇのに仕事なんざしやがって」
「うるせぇな。好きで勝手にただ働きしてんだ。感謝しろとはいわねぇが文句もいうな」
「ケッ、ヘボナスのくせに一丁前なことぬかすんじゃねぇ」
「ヘボナス?なんで俺がヘボナス?」
「ふん。ヘボいナスビだからだ。てめぇなんざヘボナスで充分だ」
ふさふさとした良さ毛を撫でながら、料理長がニヤッと笑いました。
「…クソジジイが…。勝手にヘボ呼ばわりしやがって、チクショー!!クソさみぃぞ!なんでこの国はこんなに寒いんだ!クソッタレが!!」
サンジが空に向かって怒鳴ると、
「お前知ってるか?」
「何を」
「オールブルーだ」
料理長がニッとサンジに笑いかけました。
「オールブルー?」
それは男の子の内緒話です。二人はまるで自分だけの秘密基地を語る子供のように、青い眼を輝かせました。
「そうだ。奇跡の海とか夢物語だともいわれているが、そこは世界中の海の恵みとすべての青が凝縮されている、そんな海がある」
「さて、そろそろ行くとするか」
料理長が腰をあげました。
その声にサンジはハッと驚いたように周りをきょろきょろと見渡します。
「…あ、……え?イーストブルーか?」
そんなサンジを見て料理長が鼻で笑いました。
「当たり前だ。オールブルーへ行くとでも思ったのか阿呆め。奇跡はそんなにお安くねぇぞ。甘くみるととんでもねぇ目にあうってことを忘れるな」
ふと、継母とドクトリーヌの会話が頭に蘇えりました。奇跡は愚か者がみる夢だと、二人が高らかに笑うのを思い出してしまいました。
「なに笑ってやがる?」
「いや…なんか近いような話を聞いたと思い出してさ。なァ、アンタもまたオールブルーを目指すんだろ?グランドラインだっけか?だから教えてくれたんだよな?だってすげぇよ。聞いてるだけでもすげぇ」
すると料理長はわずかに顔を曇らせ、サンジに背を向けて、
「いや、残念ながら俺の仲間はもういねぇ。仲間も、俺の脚も、嵐がみんな呑みこんじまった。だから大切ではあるが俺にはすっかり縁がねぇ場所だ。ただの夢物語だとおもって聞き流してかまわんぞ」
そういってまた厨房に戻って行きました。
中から元気な怒鳴り声が聞こえてきます。コックの悲鳴も聞こえます。旅立つ前、料理長は何かと大忙しなのでした。
翌日からサンジは朝だけでなく夜も厨房へ行くようになりました。といいましてもそうそう抜け出せるはずもなく、食後にそっと出かけていって、するのは後片付けや翌日の下準備等で、そして誰もいなくなった厨房でこっそりと火を熾して料理をこさえました。その料理は温めなおして王子と自分の朝食になります。ですから部屋へ戻る時間も近頃はめっきり遅くなってしまいました。
料理長が旅立って1週間ほどした、ある寒い夜のことです。
こっそり部屋に戻ると王子は既に寝ていました。まだ傷が完全に癒えないのか、近頃はだいぶ大人しくしているようです。ふらふら出歩くこともしません。
着替えを済ませ、そのままベッドへ入るとサンジは大きく息を吐き出しました。
部屋の中なのに息が真っ白です。寒くて長い冬のはじまりでした。
「…さみっ」
身体がすっかり冷え切っています。かなり疲れているものの寒くて眠るに眠れず、毛布の中でもぞもぞしていますと、
「横着しねぇで風呂に入って来い」
王子の声がしました。眠っていると思ったのですがもしかすると起こしてしまったのかもしれません。
「悪ぃ。寝てた?それとも起きてた?」問うと、
「うとうとしてた」そういって王子はまた目を瞑りましたが、サンジが風呂にいく気配がないのに気づき、面倒そうに目を開けてまた声をかけました。
「風呂に入ってきたらどうだ?寒くて眠れねぇんだろうが」
「そうしてぇのは山々だが疲れちまって…。一晩風呂に入らなくても死にやしねぇが今は寝なけりゃ死んじまう。つうか今風呂に入ったら死ぬ。絶対溺れ死ぬ」
辛そうな顔で眉間に皺を寄せ、目を閉じたまま死ぬ死ぬ呟いています。
「アホ。頼まれもしねぇのを好きでやってるくせに。なにが死ぬだ」
料理長と同じようなことを言いながら、王子はサンジの傍らまで自分の身体を移動させました。
広いベッドのほぼ中央で、やわらかな毛布の中で身を寄せ合いますと、生地越しに二人の体温が混じりあいます。王子の身体は毛布よりもはるかに温かく、ぬくもりがじんわりと身体の芯まで染みこんでいくような、冷え切った身体にはたまらない心地よさでした。
「……うっ、……ぬくい。なんだこの温かさは…」
お前はいつもこんな無駄な熱量を放出してるかと、そんなサンジの言葉に、
「……てめぇは、いつもいつも…」
舌打ちして、王子はまた離れようとしました。彼は文句を言われながらくっついているほどお人よしではないですし、さほど人格者でもありません。
「待て待て待てって。誰も嫌だとはいってねぇだろうが。早合点すんな」
だから待てと王子を無理やり引っ張って、自ら身体を摺り寄せました。ひんやりしたお布団の中で、逃がさぬとばかりに王子から離れようとしません。
「…くーーーーー……っ…、毬藻のくせにクソあったけぇったら……………、はふぅ……」
毛布のなかで手足を絡ませ、まるで温泉にでも入っているかのような声で呻りました。
「暖炉に火を入れてもらうか?」
「…ん、そうだな」
「今年はいきなり寒さがきやがった」
「……ん」
だんだん返事が小さくなっていきます。
「おい」
コクコクと首を小さく動かすだけです。
「……てめぇは…」
「…ん?…なんだ?」
ようやく顔を上げ、
「煙草と食い物と汗くせぇ…。やっぱ風呂はいってこい…」
しかめ面する王子を見て、サンジが笑いました。ククッと低い笑い声と一緒に、毛布の中で震えるように肩が小さく揺れました。
城はすっかり寝静まって、物音ひとつしません。まるでこの世界には誰一人として起きていないかのようです。静か過ぎて耳が痛いくらいです。
「………あのな」
毛布の中で寄りそうように身体をピタッとくっつけて、サンジが小さな声で王子の耳に話しかけました。
「…この世界のどこかに、オールブルーって海があるんだと。お前、聞いたことあるか?」
「オールブルー?」
「世界にはイースト、ウエスト、サウス、ノースって4つの海があんだろ?それが全部集まった奇跡の海なんだとさ。料理長が教えてくれた」
「4つの海が1箇所にか?」
「そうだ。その海には………」
話の途中でサンジが大きな欠伸をしました。よほど疲れているのでしょう。長い欠伸の後は目がほとんど閉じかけています。
「……海には…、そんで、そこにはな、世界中の海の幸が集まっていて…、マンモスくじらや八百蛸…」
声までだんだん小さくなっていって、
「…はんまとか」
ろれつまで怪しくなってきました。
「…まむろ」
「はんま?まむろ?」
思わず王子は聞き返しました。はんまやまむろなど見たことも聞いたこともありません。
もしかすると、さんまやまぐろといいたいのでしょうか。また欠伸をすると、
「……まむろ…ろ…ろ…」
と、それはそれは眠そうな声で、
「…あれ?ろのつく食いモンなんかあったっけか……」
もしや寝惚けているのか、
「何を言ってる?」
「……あ、ロケットう…お……」
「ロケットウ?ロケットウってなんだ?」
訳のわからないことを言いはじめました。
「……お………………お………」
一人でぶつぶつ言ってるのを聞いて、
「おい?寝惚けてんのか?」
さすがの王子もツッコミを入れました。なにを言っているのか、この男がなにを言いたいのかさっぱりわかりません。
「おい」
もう一度声をかけるとサンジは、
「…ん…あ。………俺が……、俺が…いつか……きっ…と…」
そういったきり動かなくなりました。いくら揺すろうとピクリともしません。ぐったりと王子の肩にもたれかかり、とても気持ち良さそうに眠っています。
「…阿呆が」
そして王子もまた両の目を閉ざしました。
うとうとしていますと、またどこからともなく、また食べ物のにおいが漂ってくることに気づきました。とてもいいにおいです。
閉じた目をまたそっと開けて、王子はサンジに顔を近づけ、鼻を小さくクンと鳴らしました。
この男に染みついたにおいなのでしょうか。煙草のむこうから漂ってくるものは、もしかすると明日のスープかもしれません。透きとおった、濁りのない、そしてお腹がほんのり温かくなるような、そんなスープのにおいです。
王子は金色の髪に顔を近づけ、胸に匂いを吸い込むと、髪を一房つまんでまたゆっくりと目を閉ざしました。
物心ついた時から広く大きな部屋で、ずっと一人で寝ています。もっともっと幼い頃は、隣の部屋に乳母らしき人物がいたようですが実は良く覚えておりません。それはあまりにも昔のことですし、ですから人と寄り添って眠るなどとんと記憶にないことで、もしかすると生まれて初めてかもしれないのです。
スースーと、男の息遣いがすぐ耳元で聞こえます。
規則正しい寝息とそのぬくもり。
日に日に空気が冷たくなっていく、そんな冬の夜は人の温かさが気持ちよいものであると、実はそんなことを考えることすら初めてだったのですが、それに気づくこともなく王子もまた深い眠りにおちていったのでした。
つづきます
2010/10.09