10.王子が身を乗り出して「何処だ?」、「だからここだってば」
城の天辺で、サンジが煙草の煙をプカー、青空にきれいな白い輪を2個、プカプカーと浮かばせました。
そして大きく立派なお城や、その周りを囲む緑豊な森、いつも賑わっている城下町や整備された田園地帯など、広大な国土をぐるり見渡しますと、
「よし!」
大きく胸を張って自分に気合を入れました。何が『よし』なのかはともかく、こんなのに負けちゃらんねえと心から思ったからです。
その時、空から突如一羽の黒い鳥が舞い降りてきて、サンジの髪を啄ばみました。
「いでっ!」
見ればカラスです。先日のカラスかどうかはわかりませんが、
「…このっ。俺に喧嘩売る気かコンチクショー!黒いからって威張ってんじゃねぇぞこのやろ!カーカーうるせぇっ!」
負けてたまるかと、執拗に髪を啄ばむのを拒んで蹴ろうとしましたけど、素早い動きに脚はむなしく空回りして、カラスは金色の髪を一房戦利品として嘴に咥え、また大空へと飛び立って行きました。
「…あのさ」
前を歩くイガラムに、背後からそっと声をかけました。
「実は」
ひとつひとつ、
「俺さ」
言葉を区切って、
「ハゲができた」
と、まるで『子供ができた』とでも告げたかのような照れた口調で、サンジが嬉しそうに笑いますと、イガラムは驚きに目を丸くしました。
「ハゲ?ハゲですか!?まさか円形脱毛症?おおお、なんとしたことでしょう!この城に来られてストレスになるようなことでもあったのでしょうか!さっそくドクトリーヌを!早急に治療を!」
歴史の先生が待ってると呼びに来た時のことでした。
「いや、あのばあさんはいらねぇ。アレは痛い」
「ですが、ハゲがっ!」
「大丈夫大丈夫、ちょっと安静にすればすぐに治っから」
寝れば治る、だから寝ると、足取りも軽やかに部屋へ戻ろうとするのを、背後から呼び止められました。
「そのハゲとやらを見せていただいて宜しいですか?」
「ここ」、とサンジが頭を差し出すと、髪を掻き分けて「ほう」とイガラムが呟きました。
「たしかに。紛う方なきハゲです。1べりーくらいの大きさですね。ですが、自発的に抜けたというより、毟り取られたような感じですが。毛根が少し赤くなってます」
ドキンと心臓が嫌な音を立てました。
「…いや、でもハゲはハゲだから…」
イガラムがじっとサンジの目を見ます。
「まさかご自分で抜かれたとか?」
ブンブンと大きく首を左右に振って、それを激しく否定しますと、
「そんなに歴史がお嫌ですか?」
真面目な顔で問われました。ドキドキドキドキ、ますますヘンな音で心臓が動いて困りますけど、サンジにはそれを止める手立てがありません。
「…嫌と聞かれれば嫌だが、別に死ぬほど嫌とかいうわけじゃねぇ…。ただ、あんなむかしむかしの話ばっかされても…、死んだ爺さん婆さんばっかでお姫さまなんかほとんど出てこねぇし…」
「先日といい、よもや休まれ癖でも付いたのでは?」
「……そんなんじゃねぇけど、でもハゲが…、だってハゲが…」
でもでもだってと言い訳で口を尖らせるサンジに、イガラムが詰め寄ります。
「ではなんだというのです?ハゲができた、ならば医者をとおもえば、でも医者は嫌だと、そんな子供のような我侭をおっしゃられても困ります。温故知新、古きたずねて新しきを知ることが重要なのです。何よりも、あなた様は王族の一員としてこの国の将来を担うという重大な役目があるのですが、それを自覚されておりますでしょうか。それらを過去の偉人や歴史から学ぶというのもちゃんとした務めだと、口をすっぱくしてあれだけ何回もご説明いたしましたのに、未だご理解いただけないのが残念でなりません。ならば今一度、説くとお話を聞いていただかねば」
と、延々説教されて、
「……チクショー」
悔しそうにギリギリと奥歯を噛み締め、
「…だって、だってしょうがねぇだろ!俺が悪いんじゃねぇ!俺だけが悪いんじゃねーーーーっ!ハゲはハゲだ!差別すんな!」
文句ならカラスに言えと捨て台詞を残して、いきなり駆けだしました。
「カラス?って、だから先生が待ってるというのに!いつもいつもすっぽかして、先生にもハゲが出来たらどうするんです!それでなくても彼は薄毛なのに!やもすればツルッパゲ、って何処に行かれるんですか!」
大声で怒鳴りましたけど、広い廊下に自分の声だけが空しく響いて、その姿の欠片すらもう何処にもありませんでした。
サンジが走ります。物事がことごとく上手くいかず、自分の人生どうなってんだというくらいやることなすこと裏目裏目で、負けねぇという気構えはあるもののかといって勝てる気もせず、いっそこのまま城からとんずらしたい気分で、石の階段を3段飛びで降りて、中庭を抜けて城の東へと走っていくうちに、どこからともなくいい匂いが漂ってくることに気づきました。
葱を炒める香ばしい匂いです。
肉汁のソースに混じっているのは大蒜と赤ワインでしょうか。
そして様々な香辛料のにおいもします。
粒胡椒や月桂樹などの他にも知らないにおい、街のスパイス屋にもないようなにおいがたくさん混じっています。サンジは引き寄せられるように、においを辿って歩きました。
今まで足を踏み入れたことがない場所でした。
でもこのお城は本当に大きくて、サンジが知っている場所などたかがしれているくらいで、こういう場所があって当然なのですが、他のことに忙殺されて考えもしなかったのです。
そこは城の厨房でした。
大きなお城は王族だけでなくもちろん兵隊や家臣達がたくさんいます。その胃袋を担うのがこの場所です。
中の様子を伺うと、10数人の屈強な男たちが働いているのが見えました。
おたまや包丁を振り回し、鍋や食器ががちゃがちゃ音を立てて、そして男たちの怒鳴り声も聞こえます。その様子をサンジがそっと物陰から覗いておりましたらば、
「おい。そこで何こそこそしてやがる」
いきなり背後から声を掛けられました。
振りかえってみれば、いつの間にやらすぐ背後に見知らぬ初老の男が立っているではありませんか。コックの高い高い山高帽をかぶり、三つ編みの立派な髭を携え、しかめっ面で、
「何だてめぇは。見たことねぇツラだ。新人か?」
そういって、サンジを睨みました。
扉の前に立つ男に、作業中のコックたちが気づくと、
「あ、料理長!ようやくお帰りなすったんですか!?」
「おかえり料理長!」
「お疲れさんでやした!」
声をかけて、わらわらと集まってまいりました。
「どうでしたか、イーストブルーの方は?本店の方は変わりありやせんでしたか?」
「大丈夫だ。問題ねぇ。こっちは変わりねぇか」
すると、厨房にいた男たちが次々に捲くし立てました。
「いやもうそれがもう、おおありで!!」
「これが、あったなんてもんじゃねーんですよ!」
「ほら、王子の舞踏会があったじゃねぇですかい!」
「だから出発日を多少ずらしたわけだが、あの後なんか問題でもあったか?」
初老の男が訊きます。
「だからあったもなにも!」
「驚くことに!」
「なんと王子の嫁さんが決まったんでがすよ!」
「すぐに挙式になっちまって、料理長は本店に移動中で連絡取れねぇし、もうどうなるかと思ったけど、それはとりあえずどうにかなりやしたがね。それはいいとして」
「てめぇらだけでちゃんとやれたのかどうか心配だが済んじまったことはしょうがねぇ。しかし、あの王子がよく結婚なんかする気になったな。どんな嫁さんだ?」
「そうそうそう!その嫁が問題なわけで!」
「もうなんといっていいか…」、男たちが顔を見合わせてゲラゲラ大笑いしました。
「一応金髪だけども」
「別に見た目が悪いわけじゃねぇけど」
「胸は薄焼きのピザよりも平らで」
「何故か眉は巻いてるし」
「口が悪くて」
「ガラも悪ぃけどが」
「それよりなにより…」と、また顔を見合わせて、
「これがなんと、王子の嫁さん男なんすよ!だから胸はぺったんこで当たり前なんすけどね!」
そういって、またゲラゲラと大笑いしました。
「挙式の時、近隣国の王族方がいらして、皆一様に驚いた顔で」
「なのにうちの王さまときたら、並び立つお二人を見て『意外とアリだな。思ったより悪くない。な?お前らもそう思うだろ?』って至極満足そうな顔して、イガラムは感動してんのかボロボロボロボロ泣いてばっかだし、それに比べ招待された王族たちの困りきった顔といったら」
「当の本人たちはこの上ない仏頂面で、端から愛想もクソもねぇし」
「二人してニコリともしやしねぇ」
「王妃さまなんかアラバスタの王様に『ふふふ、すごく珍しいでしょ?』ってそれはそれは自慢げな顔をされて、訊かれた王様もやはり少し困り顔で、なのに王妃さまったら『羨ましくてもアラバスタにはあげないわ』なんて威張っちゃって、スゲーよ王妃さま…、半端ねぇ…」
「そしたら『……いや滅相もない。それにお二人ともたいそう男らしく、ご立派な勇者とお見受けした』って。さすがアラバスタの王様!」
皆で腹を抱えて、
「ふたりが勇者だとか、もうもう…!」
「王さまサイコー王妃さまサイコー!」
「この国ってマジでサイコーっすよ!」
「滅多にねぇぞ、こんな懐が広い国は!国もでけぇがやることも半端ねぇ!うちは嫁さんが男!」
ひとりのコックが、
「お前ら知ってるか?ゴミ捨てん時、塔の天辺でカラスと喧嘩してる嫁を見た。負けて泣いてた」
というと、
「カラスと闘って負けたんか!?勇者なのに?それで泣いてたとか、可愛いじゃねぇかうちの嫁はチクショー腹痛ぇ!」
コックたちはヒーヒーと笑いながら腹を押さえて、ぼろぼろ涙を流してゲラゲラゲラゲラ笑い転げました。
「ほほう、そんなことがあったのか」
料理長と呼ばれた男はニヤニヤ笑いながら立派な髭を数度撫でますと、
「お前らがいう王子の嫁とはこんなツラか?」
くるりと背後を振り返りました。するとそこには、料理長の後ろに隠れるように立っていたサンジの姿がありました。ですが、別に隠れていたわけではありません。料理長が恰幅良いので、すっぽりと身体の影になってしまって見えなかっただけです。
「そうそう!こんな生意気そうなツラでさぁ!」
「そっくり!」
「というか」
「こりゃあの男嫁じゃねぇか?」
「ちがいねぇ、男嫁だ!」
コックたちが驚いてサンジを一斉に指差します。
「……クソったれが…」
低く獣のような呻り声を上げると、
「…てめぇら、人を指差してはいけませんて教わらなかったんかああああああ!嫁嫁うるせぇってんだ!男嫁とかふざけんなこらっ!誰が泣くか、誰がカラスになんか負けっかよコンチクショー!しかも本人の目の前でおもいっきり悪口いいやがって…、笑いもんにしやがって…、てめぇらまとめて成敗してくれる!」
大声で怒鳴るやいなや、コックたちに飛びかかっていきました。
コックたちが暴れているのを無視して、料理長は中に入ってぐるりと厨房を見渡しますと、ふんと鼻を鳴らして、
「チッ、俺がいないとおもって、見えねぇとこで手を抜きやがったな」
汚れた鍋底を見て小さく舌打ちをしました。ひと月あまり留守にして、心なしか厨房が少し薄汚れてしまったような気がします。
そして皿に残ってるソースをすっと指ですくい、口に含み小さく頷きました。次に寸胴の鍋に入ってるスープを見て、料理長の顔が険しくなりますと、
「あーあ、こんなに濁らせちまって」
いきなりサンジが顔を出して、同じく鍋を覗きこみました。
「うちの馬鹿共はどうした?」
「みんな揃って外で寝てる。職務怠慢だ、おもいっきり減給してやれ」といって、物珍しそうに厨房を見渡しました。
鍋や釜や包丁、見たことがない道具もたくさんあって、棚には香辛料がまるで店のように並べられています。
「…すげ」
サンジの目に、それらはまるで宝箱のように映りました。見慣れた粒胡椒まですらきらきら輝いて見えます。
「てめぇも料理するのか?」
小さく頷きますと、料理長は髭を数回撫でながら扉へと向かって、
「おい!いつまで休憩してる!早く仕事に戻りやがれっ!このバカ者共めっ!てめぇの職場も満足に掃除できねぇから、お前らはいつまでもカラス以下なんだっ!」
外で重なるように倒れているコックたちに向かって、大声を張り上げたのでありました。
「てなことがあって、厨房からこの紅茶をもらってきた。いい匂いだろ。お前には酒入りな。酒好きだもんな。お盆ごとおいとくからこぼすんじゃねぇぞ」
そういって、サンジはベッドに転がる王子のそばに銀のトレーを置きました。
サンジもごろっと横になりました。夜なのでよく眠れるようにとミルクもたっぷりです。
王子もごろごろ横になって、お行儀の悪いことに二人は肘をついて、寝ながら紅茶を飲んでいます。
「で、ハゲはどうしたんだ?」
王子が問いかけました。
「どうしたも何も」
髪を掻き分けて、「ここ、ここを毟られた」と場所を教えると、王子が「どれ」と身を乗り出しました。
「何処だ?」
「だからここ」
「さっぱりわからん」
「だからここだっていってんだろ」
「あ、これか」
「ちゃんと見ろバカ」
「…ハゲが偉そうに、こんな小さいハゲひとつで威張りやがって、ハゲのくせに」、等とやっているうちに二人は紅茶を飲み終えました。
「ハゲハゲうるせぇ。ふたつなら威張っていいってわけじゃねぇだろ」
「ふん。カラスに負けた奴がなにを威張ろうってんだ」
「バカめ。しょうがねぇから勝たせてやったんだ。小動物を苛めると文句いわれんだぞ。しかもカラスは祟る」
「祟る?ま、物はいいようだ」、飲み終えたカップを横に置いて、二人はまたごろっと横になりました。
そして何を考えたのか、サンジは、
「そっか、てめぇは頭全体がうすらハゲだから、いつもそんなに偉そうなんだな」、そういって緑色した短い髪をツンツン摘みますと、
「うるせぇタコ、たかがハゲで威張るなって話だ。こんなのツバつけときゃ治る」
そしてツバをつけたのつけないの、汚い汚くないと喧嘩になって、サンジは怒ってそのままふて寝してしまいました。
王子に背を向けたまま、いつしかスースーと寝息が聞こえてきます。
金色の髪がランプに照らし出され、まるで本物の黄金のように1本1本の髪がきらきらと輝いていて、天女の紡ぐ金糸のように浮世離れして見えます。
カラスは光りもんが好きだという、前に先生から聞かされた話を王子は思い出しました。
講義の内容はまったくといっていいほど覚えていないのですが、彼の頭がそれはそれは薄かったことと、その教師がムッとした顔でカラスはキラキラ光ったものが好きだと語っていたこと、そんなつまらないことだけ王子は覚えていたのでした。
広い寝室はとても静かで、軽い寝息だけが聞こえてきます。
腕を伸ばすと金色の髪を一房摘んで、指先からサラサラ落ちていく様を見て「ふん」と一度だけ鼻を鳴らし、くるりとサンジに背を向けたまま王子も眠りにつきました。
静かな夜です。
遠くから、珠を転がしたような小夜啼鳥のきれいな鳴き声が、ころころと闇に溶けていきました。
いくら漕いでも進んでるようにみえない、でも漕ぎつづければいつかはきっと。てなわけで、まだ続きます。
2010/03.08