虜ローラー
正面に寝返りを打つと、辛そうな息を漏らした。白い喉が苦しいと仰け反っている。
そうだ。衣服を緩め、もっと楽にしてやらねば。
ボタンを外す自分の指先が震えた。緊張のあまりか、カタカタと小さく震え、そして冷たく、ひどく息苦しくなって俺は喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。
ごくりと、恥ずかしくなるほど大きな音だった。
ボタンを3つ外し、もっともっと楽になるようにと、まだ震える指で俺は白いシャツの前をはだけた。
しっとり湿った白い肌。
そっと触れると、空気に曝け出された汗がひんやり冷たかった。
ああ。
俺の口から、溜息とも、感嘆といってもいいような息が漏れた。
サンジさん。
アンタの肌は生まれたての真珠のようだ。
サンジさん。
その白い肌は、この春一番に咲いたこぶしの花よりも白く瑞々しい。
アンタの、その薄紅色の。
そう、俺の指はきれいな花に吸い寄せられる虫のようだ。誘われるように、微かな膨らみへと指を伸ばした。
まるで指先が痺れたようだった。夢心地とはこういう心境をさすのか、目の前が一面の薔薇色だ。
その微かな感触をじっくり味わった後、俺はゆっくりと指を動かした。人差し指で、まあるく、撫でるように、こねるように、押すように弄っていると、それがぷっくりと少し大きくなった。
気の所為じゃない。
俺の指の下で、俺の指がそれを育てたのだ。
「…んっ」
サンジさんが小さな呻き声をあげた。そんな僅かな声にも俺の指は動揺してしまう。
まだ苦しいのだろうか。可哀想に、微かに眉を顰めた表情が辛そうだ。
音が聞こえた。外から車のクラクションが数回、危険を知らせる警笛として俺の耳に届いた。
気をつけないと。
そう、もっと慎重に。
気をつけないと。
地獄から魔王がやってくる。
そして隠れていた死神が俺達に鎌をおろすのだ。
部屋の空気が張り詰めた糸のようにピンと音を立てて、その中で俺は息を潜めた。
注意深く、できるだけ用心しないと、蜜のように甘い時間が終わってしまう。
蜜のような。
まるで蜜のようにしっとりと濡れた唇が微かに動いた。
サンジさん、そんなに苦しいのか。
ほんのり赤い唇に、震える指先を近づけた。
あと数ミリ。指の震えがまだ止まらない。
「……ギン?」
俺の身体を白い雷が貫いた。
いつの間にか、半分ほど開かれた青い眼が、俺を見つめているのに気づいた。
ああ、アンタのその眼はどんな海よりも美しいことに自分で気づいているだろうか。それは奇跡の海だ。
「…ギン」
サンジさんが俺の名前を呼ぶ。その唇で俺の名を。
額にかかる金色の髪が濡れている。汗に濡れた髪と微かな体臭、それさえも俺には芳しい匂いだ。頭の芯が痺れるほどに、ねっとりと甘い。
さらさらとシーツに零れる黄金の川。光り輝くその髪先に、ほんの少しだけ触れてもよいだろうか。アンタは地上に舞い降りた天使だ…。
カチリと、不吉な音が背後から聞こえた。
「鍵が開いてんぞ。無用心だな、てめぇは」
無愛想な声が、俺達のきよらかな空間に入ってきた。
魔王の降臨だった。
「誰だ、おめぇは?」
俺を睨むと、サンジさんが替わりに答えた。
「ギンだ。話したことなかったっけ?同じマンションの奴。うちの店の常連だ。俺が寝込んでっから薬を持ってきてくれた。悪かったな、看病してくれたんか?」
その邪気のない表情に、俺の胸は疚しさで痛くなった。
そして男と目線で挨拶をかわした。この男は俺を知らないようだが、俺は知っている。
サンジさんの住むマンションに時折やってくるこの男は―――。
「薬飲んでちょっと寝たらかなり楽になった」
そういってだるそうに身体を起こし、俺は我に返った。
サンジさんが男に問いかける。
「もう夕方か…。思ったより早かったじゃねぇか。仕事は?」
「有給取った」
「だったら早くくりゃいいだろ。何処で迷子になってやがった?」
「早く来ただろうが。いちいちうるせぇな」
文句を言いながら男が手にした袋をサンジさんに渡し、中を広げると、
「…とんかつ?」
可愛く首を傾げた。
「…病人にとんかつ?しかも大盛りか?へぇ、ぶ厚くてでっけぇ肉。すげぇじゃねぇか、おい」
そして、
「……この薄らトンカチがあああァ!てめぇの食いたいモンを買ってきやがったなっ!なんの嫌がらせだ!ちったァそのボンクラ頭を使ったらどうだ!」
すごい顔で怒鳴った。
サンジさん。サンジさんは天使のようだが、ちょっとだけ口が悪い。ああ、そんなに怒ると、せっかくの綺麗な顔が般若になってしまう。
「そんだけ怒鳴れりゃ元気じゃねぇか」
「ふざけんな。俺は重病人だ。なァギン?」
そういって俺に微笑んだ。やっぱりあんたは天使だ。背中に白い羽根が見える、天から高らかなファンファーレが聞こえる。
「何だ、弁当が気に食わねぇのか。早く言え。俺の分と交換してもいいぞ。パンだが」
パンの方がまだマシだと、サンジさんはもうひとつの袋を受け取り、中身を見るなりまた怒鳴った。
「かつサンドかよっ!」
「しかしおめぇは風邪引いたくれぇで偉そうに…。つうか、なんでバカが、バカのくせに風邪なんか引いてんだ?文句があるなら食うなっ!」
「いらんとは言ってねぇ。朝から何も食ってねぇんだ。ギン、お茶でもいれるから、てめぇも食ってけよな。いつも眼の下に隈つくって顔色悪ぃんだかんよ。ちゃんと飯食ってんのか?」
俺のことを心配してくれてんのか、サンジさん。あんたはマリア様みたいに慈悲深く優しいんだな。
だけど、マリア様はそんな凶悪な顔はしないと思う。乱暴に蹴ったりしないと思うんだが。サンジさん、アンタさっきまで熱があったんじゃないのか。
「…病人だと思って優しくしてりゃァ…、痛ぇぞ、チクショー!」
魔王が怒鳴り、病み上がりのマリア様に殴りかかった。
結局、魔王が大盛りとんかつ弁当を食って、俺とサンジさんでかつサンドを摘まんだ。
その時、サンジさんがいれてくれた紅茶を、俺は生涯忘れないだろう。芳醇な香りとほんわりあたたかい湯気。幸せをぎゅうっと凝縮したものが、そこにはあった。その時、確かに俺はしあわせだったのだ。
「…クソ、寝汗かいちまった。身体を拭いてくる」
サンジさんがそう呟きながら風呂に向かった。
男がゴミをキッチンへ運ぶ。キッチンと風呂は向かい合わせで部屋から死角の位置にある。俺の部屋と同じ間取りだ。
俺も立ち上がって帰るために声をかけようとしたら、微かに話し声が聞こえた。
「…汗臭ぇって」
サンジさんの声だ。そして、俺は眼にしてしまった。
3つのボタン。震える指で大切な宝石箱のようにそっと開けた、白いシャツに男が顔を寄せ、あの白い胸に吸い付いているのを見てしまった。
「…かまうか。人前でガバガバおっびろげやがって」
「…うっせぇな。しょうがねぇだろ、風邪ひいちまったんだから。移るぞ」
そう言いつつも、自分の胸にある緑色の髪、そのヘンな色をした頭をサンジさんは両手で抱き寄せ、そっと髪に口付けた。
先程とは打って変わった、その穏やかな横顔。
思ったとおりだ。やっぱりサンジさんはマリア様だった。
気づくと、俺は外に出ていた。
天は晴れ晴れと、何事もなかったかのように輝いていた。傾きかけたオレンジ色の光が温かく俺をつつむ。
俺の心が泣いている。悲しみに、心が砕けんばかりに、血を流し泣き叫んでいる。
そして俺は誓った。
そう、ならば俺はこの太陽のように大きな愛をサンジさんに注ごう。
それは親の如く寛大で無償の愛だ。たとえ相手が魔王だろうと死神であろうと、サンジさんが幸せならそれだけでいいではないか。それ以上は望むまい、決して人は羨むまい。
夕焼け空を見上げ、俺は思い出す。
サンジさんが生まれた日、その日の午後は溢れんばかりに光り輝いていた。その陽だまりの中でサンジさんは生を受けたのだ。だが、残念ながらその日がいつか俺は知らない。
サンジさんが初めて言葉を話した日。小さく可愛い唇で、幼い声で俺を呼んだ。
そして初めて歩いた時、あの小さな足でヨチヨチと緑色に輝く芝の上を歩いた。もちろん全部妄想だ。
名前を呼ぶと小さな両手を差し出し、俺に柔らかな頬を摺り寄せ、可愛い天使の顔で笑うのだ。伸びた髭でなめらかな頬をゾリゾリすると、痛いよと逃げながら、きゃっきゃとはしゃぐあの笑顔。
俺の妄想は止まらなかった。
幼稚園小学校中学校と続き、サンジさんの実らなかった淡い初恋、そして恋。もちろん、想像以外何物でもないが、いずれも見たかのように、まるで眼の前にその光景があるかのようだ。今までの妄想集大成といっても過言ではない。
そして現在。
サンジさんの身体はあの男の腕の中にある。俺が部屋を出た今、もしかするともう既に病み上がりの身体を組み敷かれているかもしれない。
あの粗暴な男に、あんなことや、またはあんなことまでされ、身体が喜びに打ち震えているやもしれない。あのきれいな身体が淫らに喘ぎ、悶え、そして甘い声で啼きながら、なす術もなく弄ばれているのかと思うと、このまま町内を全力疾走したくて堪らなくなる。
ふと現実に返った。サンジさんは若干凶暴で少しばかり口が悪い。もしかすると、大人しくされるがままではない可能性が高い。けど、俺はあえて眼を瞑る。あれは仮の姿に違いない。本当は心美しくどこまでも、遠い宇宙の果てまでも清らかなのだ。
ああ、サンジさん。
俺はどうやら間違ってしまったらしい。
そんな妄想などしなければよかった。太陽のように包み込むとは、なんて図々しい。娘を持つ父親の気持ちなど、いや、娘じゃないが、俺は想像しなければよかった。そんな愛など知らなければよかったのに。
よもや、こんな気持ちになるとは夢にも思わなかった。
こんなにも、こんなにも。
こんなにも。
相手の男が憎いものだと、俺は思ってもみなかった。
END
2008/5.26 ブログにてUPしたものです。