僕の右手
水無月。
大安。
じとじとじとじと、どんよりと湿った曇り空だ。
「蒸し暑ち………」
「何もこんな日にやらなくたってさ…」
「あのヤロー、マジで気が利かねぇ…」
「しかしカヤちゃん、綺麗だったな…。あんな可愛い子があれの嫁になるのかと思うと胸が締め付けられる…、というか、俺も味見してえええええ!つうか、させろ。料理と味見はコックの領域だぞ」
「おまけに重い。何が入ってやがんだ?今時こんなクソ重い式出物とか…。嫌がらせか?クソッパナのクソッタレがクソ踏んでくたばっちまえばいいのに」
一緒に歩きながらサンジがぶつぶつ文句を言っている。
そんな梅雨空よりうっとおしい戯言をゾロはなんなく聞き流した。まともに聞くと妙なダメージが残る。聞いているふりして聞いてなくて、適当な相槌に生返事、そんな熟年夫婦のような技をゾロは8年かけて習得した。
つまりは付き合ってから8年経つ。
8年の歳月が長いのか短いのかはわからない。その間には、何度大喧嘩をしたかわからないけれど、別れ話だけは双方口にしたことがなかった。
以前、ゾロはサンジに訊かれたことがある。
「お前さ、俺と一緒にいると疲れねぇ?」
「疲れるときもある、つうか疲れるときのほうが多いかもしれん」
正直に答えた。
「じゃ、なんで俺といるわけ?そういうのが好きなのか?もしかするとマゾ?」
「疲れるが、その後はすげぇ開放感を感じるというか、慣れたというか、深く考えたこともねぇけどな」
「なんだそりゃ?それじゃ俺とは長時間は一緒にいられねえってのか?ったくむかつくヤローだぜ」
「だから、慣れたっていってんだろうが」
その言葉に偽りはなく、慣れたどころか、面倒なサンジ扱いのコツさえマスターした。マニュアル本を作れるくらいのノウハウはある。
最近ではいくら耳元で喚かれてもさほど気にならないし、それすらも時には心地いいとさえ感じるようになったくらい慣れたというか、慣らされてしまった。
付き合って8年経てば、普通の男女関係ならばとっくに結婚の話題が出てもおかしくない頃だ。むしろ遅すぎるくらいで、結婚のきっかけを失ってしまっても不思議はない。そんな歳月の間に、二人は将来について一度も話し合ったことがなかった。
いずれ何らかの形で避けては通れない問題だとわかってはいても、あえて口にしない。
ここ数年で、結婚する友人が増えた。
友人達も約半分は既婚者である。30という年齢からして、そういう時期にさしかかっているのは確かだ。
今日はウソップの結婚式だった。彼はデザインスクールの講師をしながら、若手造形作家としてめきめき頭角をあらわしつつある。その妻となる女性はさる資産家の令嬢だ。あのウソップに何故あの女性がと、サンジはもちろん高校時代の友人たちも納得いかないくらい、品良く可愛らしい女性である。
気の毒なくらいカチカチに緊張していた新郎が、最後、感極まって滝のように涙を零す姿を見て、貰い泣きをする者もいたが必死で笑いを堪える者もいた。隣に立つ新婦が困ったように、でも優しく微笑みながら新郎の涙を綺麗なハンカチで拭いていたのが印象的だった。
もちろんゾロやサンジは遠慮なく笑ったが、ウソップらしい良い結婚式であったと思った。
高校時代に知り合って以来、13年もの年月をかけ、大切に丁寧に育んで、ようやく実らせた結婚である。
話は戻るが、サンジはゾロに以前見合い話が持ち上がったことがあるのを知っている。部屋の片隅に、無造作に放り投げられてあった写真と身上書を、掃除をしながら偶然見つけてしまったからだ。おそらく親か親戚が持ち込んだものであろう。
その件について、サンジはゾロに、「自分と一緒にいると疲れないか」とだけ訊いた。いつも言葉の足りないゾロの返事は納得がいくものではなかったけれど、向こうが何もいわないのだから、こちらからわざわざ言うこともあるまいとその問題はそれきりになった。
世間とどう折り合いつけるか、それは各々の問題だとサンジは考えている。たとえその結果がどうであろうと、互いの意思を尊重したいと思ってるが、それをゾロに伝える予定は今のところなかった。
以前は会うたび毎にしていたセックスだが、ここ最近は少し回数が減ってきた。
がむしゃらに相手を貪るようなことがなくなり、若い時のような喧嘩しているのか、じゃれあっているのか、セックスしているのか解からないようなものは少なくなった。
だが、セックスの密度が濃くなった。
受け入れるサンジに落ち着きとか、余裕のようなものが出てきて、それに連れてゾロの行為もゆったりと丁寧なものに変化した。
激しさとただ挿入することを目的としないセックス、ふたりの営みが変わりつつある。
結婚式の後、ゾロはサンジのマンションに寄った。
シャワーを浴びてから着替えをして、低めのソファーにもたれてゆったりとくつろいだ。
お湯を沸かしてる間に、サンジはさっそく式出物を広げた。
『絶対に逆さにしてはいけない』、『できるだけ揺らすな』、『家に帰ったらすぐに開けろ』、『大事にしろ』、と注意書きの多いその品は、『盆栽』であった。
「なんで盆栽?」
手焼きらしい変わった形の鉢に、背の低い樹木が植えられ、小さく赤い実が生っていた。
「なんでだろうな?」
ゾロも首を傾げた。
「枯らしたら縁起悪いんじゃねぇのか?」
「なのか?」
「俺は大事にするけど、てめぇはやばくねぇ?お前、毬藻のくせにグリーンキラーだしさ」
ゾロの部屋に緑はない。あったとしてもすぐに枯らしてしまう、ようするに『緑殺し』である。
「だったらお前が俺のも世話すればいい。いっとくが差別するな。自分のだけ水やって、俺のはやらねえなんて許さねぇからな」
「許しても許さなくてもかまわねぇが、面倒なことだけ押し付けられてる気がすっぞ。ったく。それに盆栽とかやりはじめたら、長期間部屋を空けられねぇよな。あの野郎…、ろくなモン寄こさねぇ…」
ゾロの眉がピクッと上がった。
「長期間部屋を空ける予定があるのか?」
意外そうに訊ねると、
「今すぐじゃねぇ」
そう返事して、ピーーとケトルの鳴るキッチンへ向かう。その背中をゾロが眼で追った。
フローリングの床にはそのままTVが置かれてある。ゾロがTVのスイッチを入れた。
キッチンから戻るとポットからルイボスティを注いで手渡し、サンジはその隣に腰掛けた。
「ぬるい…」
ゾロがボソッと呟いた。淹れたてだから普通に熱いのかと思ったら、これが中途半端にぬるくて、予想外の温度だ。
「このくらいの温度が胃に優しい。だいたい、人に淹れてもらっものにケチをつけるな」
「そんな健康に気を使うほどの歳じゃねぇぞ」
「いいや。てめぇは少し気を遣ったほうがいい。まずは酒を控えろ。肝臓が泣いてる」
「お前はタバコを控えろ。肺と腹がどす黒い」
「腹は余計だ」 、サンジの眉がピクッと動いて、
「そうか?」、ゾロが小さく鼻を鳴らした。
テレビが外国の景色を映し出している。
異国の建物、見たことのない食べ物や民族衣装、行ったこともない、どこにあるかもわからないほど遠い場所だ。
ぬるめの茶をすすりながらゾロは考えた。
最近になって思うことがある。将来、自分、そしてサンジのことだ。
いつかこの男と旅に出てみたい。
知らない土地を二人で歩く。
どこまでもなだらかな草の海、白く広大な砂漠、天高くまで緑に覆われた深い森、そして異国の街と見知らぬ人々。 たとえどんな厳しい気象条件でも、二人ならばきっとやり過ごせる。世界中を旅して回るのもいいだろう。
ただ、それがいつかは未定だ。七夕に託す希望のような、漠然とした将来だ。
そんな『いつの日か』、『ふたりの未来』をふと考えてしまうことがある。
お互いに憎まれ口を叩き、喧嘩をしては抱き合いながら、最果ての地で眠る。そんな生活も悪くない。
が、問題はそれが実現できるかどうかだ。結婚と同じく自分ひとりの問題ではないし、なにより相手あってのことだ。同意が得られなければ、いくら考えてもただの妄想に過ぎない。
テレビが南国の海を映し出す。
遠浅の海と空のあいだは、絵で描いたようなくっきりとした水平線が広がっている。椰子の木陰に茅葺のヴィレッジ。ありきたりな南国の景色を、まるで絵葉書でも切り取ったように、テレビの中には青い海が広がっていた。
ぼうっとテレビを見ているゾロに、サンジが顔を向けずに声をかけた。
「お前さ、普段ロクにテレビなんか見ねぇけど、こういうのは好きだよな」
無造作に置かれたゾロの右手を、サンジがさりげなく握る。
「いいよなァ…。綺麗な海でさ…。なァ、こんな所でのんびりできたら最高だとおもわねぇか?」
いつもひんやりしているのはコックの手だからか。食材を扱うには冷たい手の方が向くらしいが、だからかどうかゾロにはわからない。ただ、わかっているのはサンジの手はいつもさらっとしている。
「金溜めてさ、こんな所で暮らすのも悪くねぇよな。物価も安そうだからどうにかなんだろ」
視線をテレビに向けたまま、独り言のようにサンジは話し続けた。
「あのさ」
手を握ったまま、
「いつか、いつになるかわからねぇけどさ」
ひとうひとつ言葉を区切って、
「俺がてめぇを連れてってやるから」
唇が微かに笑った。
先のことなど誰も解からない、いつまで一緒にいられるかどうかも定かじゃないけれど。
でも大丈夫。
この手を離さなければいいのだと。
繋がった右手を、自分の体温で温まった手、コックの左手を、ゾロは少しだけ強く握った。
END
2006/6.23 2011/11.11 一部改稿しました。