自殺志願者が線路に落ちるスピード








左右両端10度。視界ぎりぎりの位置に存在する男がいる。
できるだけ正面から顔を合わせないよう、日頃俺が細心の注意を払っていることに気づいてる奴はいないだろう。あと半年ちょっとだ。3月になればおさらば出来る。その後は同窓会でもなければ顔を合わせることはないに違いない。
1、2、3年と、あれとはずっと一緒のクラスだ。
仲が悪くて、喧嘩して、でもいつも一緒につるんで遊んでいた仲間だった。その男を、その男が、互いを避けるようになってもうすぐ二月近くになろうとしていた。



校内の外れに旧校舎がある。
老朽化した煉瓦作りの建物は、使用されなくなって随分と経つのだろう、かなり老朽化していて、近々取り壊されるとの噂もあるくらいだ。もちろん立ち入り禁止である。
でもそんなものは学校側が勝手に決めたことであって、俺たちには全然関係ないことだ。秘密というほどを大層なものではないが、老朽化で緩んだ窓枠を外して中に入った。それは雪の降る休校日とか、あるいは夏の夜、または誰もいなくなった放課後に皆で集まった。
俺と、隣のクラスのウソップ。一学年下のルフィ。そしてマリモだ。
気がねのいらない仲間とくだらない話、他愛のないゲーム、大人ぶってタバコを吸って、持ち込んだ酒を呑んだ。
ウソップはゾロと中学から一緒で、そのせいか仲もいい。ウソップはわかりやすい嘘をつく、心優しいほら吹き男である。少々臆病なのが欠点だ。誰もいないはずの旧校舎で、小さな物音にもビクビクして笑われている。幽霊よりも警備員に見つかるほうのが怖いとマリモがニヤニヤ笑った。
ルフィは学年こそひとつ下だけど、そんな些細な年齢差がまったく気にならない程おおらかな男だ。無神経といってもいいかもしれない。突拍子のない行動をとるが、良くいえば天衣無縫で、ただの馬鹿かもしれないけれど、将来大物になる可能性を感じさせる。
マリモはマリモだ。喧嘩が強くて、疑り深くて強情っぱりで、方向音痴のくせにそれを認めようとしない。そして簡単に人を信じない。でもルフィやウソップには心を許している。
でも俺は未だに信用されていないようだ。いつも喧嘩ばかりしていたて、「嫌いだ」といわれたことはないけれど、ただ、「お前が信用できない」、そう言われた。去年、俺達がまだ2年の時の話だ。





梅雨の始まりには、しとしとと小雨が降り続く。
そんなある日の放課後、ひとり旧校舎に忍び込んで、誰かこないかと待っていたらだんだん眠くなってきて、そのまま床にごろんと寝てしまった。爆睡してしまったのか、あたりはすっかり暗くなっていて、気づくと傍らでマリモが寝ていた。
いつ来たのだろうか。
俺たちの距離は寝息が空気となって感じるほどに近い。窓から差し込んだ月光が灯かりとなって、微かに寄せられた眉間の皺と、閉じられた瞼、闇に浮かぶ緑色の睫毛を照らした。こんなに間近でこの男を見るのは初めてで、ぼんやり眺めていたら、ピクピクッと瞼が動いてすっと瞼が開いた。

そして唇が触れた。

自分からしたのか、それともマリモからしてきたのかわからないが、二人の乾いた唇が重なった。
ほんの少し触れただけなのに、ピリピリとそこが痺れたように痛くて、発熱したように熱くて、思わず身体を離ししてしまった。そして、またゾロの瞼が落ちた。よく眠る男だ。

俺は考えた。
これはキスではない。
くちづけとは呼べない幼稚な、ただ触れただけの事故のような、だがその時の焼けつくような痛みが俺をあの男から遠ざけた。
近づかないほうがいい。
それから、この男とまともに視線を合わせたことはなかった。あれも俺を見ようとはしない。
左右両端10度。その僅かな角度で、ふと視線が絡むときがある。俺は気づかないふりをして、マリモも知らんふりだ。
高校生活も残すところあと半年くらいだ。俺は自分から、あの場所と、あれを放棄した。





夏休みに入って、学校に行かなければ顔を合わせることもなくなり、ほっとしたのもつかの間、休みに入ったとたん、とんでもない事態に陥ってしまった。
夜、突然マリモが出没するようになった。
就寝前のひととき、俺は彼女のふくよかな胸を両手でもみ、固くなったピンク色の肉芽を弄び、しっとり濡れたものを開いて、その中へと指を入れていく。ぬるっとしたそこは、自分の先から零れ出たものとイメージが重なって、ゆっくり指の腹で亀頭を弄んだ。ぷっくりと膨らんだ女の子の肉芽を摘むように、自分の体液を塗りつけていく。
「あ、んん、すごく…いい」、頭の中で、女の子の甲高い声が響く。それがだんだん切羽詰った声になり、いつしか低い声に変わって、 「どこが気持ちいいんだ?いってみろ」、そう俺に問いかける。
あの乾いた唇で、隠し持った熱い舌で俺のものを咥え、弄び、射精しそうになると動きを止めた。
「いきてぇか?」
幾度も訊かれ、さんざん焦らされた挙句、ティッシュに白濁したものを放った。
頭を抱えたるなるような、ひどい自己嫌悪に陥ってしまうことがたびたびある。今年の夏は猛暑だ。あまりの暑さに頭が変になってしまったのかもしれない。まさに真夏の夜のホラー、怪談より薄ら寒い話だ。よりにもよって、俺は男をネタにしている。





楽しいはずの夏休み、といっても半分以上は塾と夏期講習だ。
塾が終わった後、友人と別れて俺はひとりで自転車を走らせた。蒸し暑い夜、冷房の効いた建物から外に出ると、ぶわっと毛穴が開いて汗が噴出した。気持ちが悪い。早く家に帰って、シャワーを浴びて、何か冷たい飲み物を、そうだ紅茶を絞りたてのグレープフルーツで割るのもいいかもしれない、そんなことを考えながら肌にまとわりつく夜風を切って、ひたすら自転車をこいだ。
そんな夜道、信号待ちで偶然ゾロに出会った。
挨拶くらいはしたほうがいいだろう。「よお」と短く声をかけると、「おう」と同じ長さの返事が返ってきた。
すぐに信号が変わって、ペダルを踏もうとした俺の背中に声をかけてきた。
「おい。時間があったら少し付き合わねぇか?」
「こんな時間に?」俺の言葉に頷き、「どこへ?」また訊くと、「学校のプール」マリモが声を潜めた。
「忍び込める場所を見つけた」





プール横の茂みに、ふたりの自転車を隠した。
脱衣室の横にある、あまり使われていない道具部屋の窓枠が緩んでいる。そっくり窓ごと外して中へ入り込んだ。
うちの学校は新校舎も旧校舎も、あちこちぼろぼろと抜け穴だらけだ。
誰もいない夜のプールは真っ黒で、ひとつ月が落っこちてゆらゆらしていた。
夜空にも、白くまるい月が輝いている。
「いいか、大きな声は出すな。水音に気をつけろ」、そういってマリモはプールサイドに服を脱ぎ捨てた。ダークグレーのボクサーパンツを穿いている。
それが意外に感じて、
「てめぇはトランクス派だと思ってた」
「ありゃ駄目だ。ブツの納まりが悪い。どうにも落ちつかねぇ」
「もしくは褌とかな」、俺がニッ笑うと、
「阿呆」
ゾロもニヤッと笑った。
こんなどうでもいいような会話が、とても久しぶりに感じる。
「お前はビキニパンツか?よくそんな小さいもん穿く気になるな?」
「セクシーだろ?」
すると、ふっと俺から視線を外した。自分でするのは構わないが、されるとあまりいい気はしない。 誘われるままについてきたのを少しだけ後悔した。
暑かったから、汗をかいていたから、夏休みだし時間もあるし興味があったから、いろいろな理由の中に隠れるように、もうひとつだけ理由がある。誘われ、声をかけられたのが何故か嬉しかったからだ。





真っ黒い夜のプール。
それでも水が冷たくて気持ちがいい。煌々とかがやく天空の月が、きらきらと水面で光っては揺れている。
できるだけ音は立てないよう、交わす言葉もなく、ただ闇の中を泳いだ。
泳ぎつかれて、プールの飛び込み台に腰掛けた。ぬるい夏の夜風が、濡れた肌に心地よい。
コールタールのような真っ黒な水、そして塩素の匂い。足元の水面に月が映って、ゆらゆらゆらゆら形を変えて、足で蹴ると小さい水音とともに消えてはまたすぐに現れた。いつの間にやらゾロが近づいてきて、
「なんでついてきた?」
真っ黒なプールの水の中から、俺を見上げて訊いた。
「なんで?お前が誘ったんだろうが?」
自分で誘っておいてなんて言い草か。水面に浮かぶ月と一緒に蹴ってやろうか、そんなことを考えていたら、ゾロがいきなり俺の左足首を掴んだ。ぎゅっと強く握り締め、

噛んだ。

「痛っ!!」
俺の抗議をゾロは言葉で塞いだ。囁くような声で、
「大きな声は出すな」
左足首を握り締め、足の指を口に含んでいく。一本一本口に入れ、舌先で転がしてはまた噛んだ。強く、甘く、歯でかみ締めていく。ぴちゃりと唾液の音が小さく響いた。
「…なに…してる…?」
声が掠れてしまった。心臓がやたら大きな音で煩い。
すごく煩い。
しかも喉が焼け付くようだ。
どうすればいい?
いや、答えは簡単だ。
蹴飛ばせばいいだけだ。そんな簡単なことなのに、何故か身体が金縛りにあったように動かない。そんな俺の気持ちをゾロが口にした。
「蹴飛ばせ」
俺と同じように、この男の声も掠れている。
「あ、っ…」、土踏まずの部分を強く噛まれ、身体が強張った。
「蹴飛ばして、触るなといったらどうだ」
見たことのない眼に戸惑った。
傷を負った獣のような眼で、
「早く。蹴り飛ばせ。俺に期待させるな」
俺を睨みつける。

「…俺が、俺に決めさせるのか?」
返事をしない。
かわりのように、足裏を舐めて、唇を強く押しつけた。


ふてぶてしくも臆病で、拒まれることを怖がっているのか望んでいるのか。
そしてずるい。
それを俺に決めろといっている。
たった半年。後、半年我慢すれば何ごともなく終わってしまう筈だったのに。
数学のように答えがひとつならよかったと。
俺とこの男の、たったひとつの答え。たとえ正解に気づいていても、どこかで間違ってしまった方程式。そこに辿り着くまでのいくつもの選択肢。本当に正しい答えはあるのだろうか。



身体がゆらりと前に倒れて、そして俺は堕ちていく。
スローモーションで見る映像のように、ひどく時間の流れが遅い。
プールの中で、驚いたようなマリモの顔がだんだん近づいてくる。俺を見ながら口端を微かに綻ばせた。本当にずるい男だ。
堕ちていくのは俺だが、お前も一緒だ。道連れにしてやるから早く足を離せ。

ゆっくりと、
ゆっくり身体が黒い水に吸い込まれてゆく。
プールの水面に、マリモの傍で白い月がゆらゆら輝いている。


大きな水音を立てちゃまずいならば、どうしたらいいか考えてみろ。



さあ、堕ちるまであと1秒。










END


2006/6.26