眺めのいい部屋 3






壊れた音だ。そしてギシッと軋んだ音が何処からか聞こえてくる。
そしてぼんやりと目蓋に映る白い光、サンジはだるそうに薄目をあけた。見慣れぬ部屋と馴染みのない空気だった。
雨戸から微かに光が漏れている。
ビスが外れてしまったのか、少し斜めに傾いでしまった木の雨戸は、想像以上に心もとない状況になっていた。
ガタガタギィギィと身を震わせながら、雨風で傷ついた自分の存在を主張している。
ゆっくりと身体を起こした。
昨夜は気づかなかったが、ベッドは窓際に沿って置かれてあった。木でつくられた硝子窓を上にあげて、観音開きに雨戸をひらくと、まだ明けきっていない朝の冷たい空気が、カーテンを揺らして部屋に流れ込んでくる。


窓の向こうに広がる景色、サンジは思わず窓から身を乗り出した。
建てられてから、ゆうに1世紀以上は経っているであろう老朽化した建物は、8階建てなのにエレベータがついていない。階段も狭く急で、しかもボロで暗くて、安いだけが取り柄のアパートメントだ。機能性や利便性という面から程遠い状態にある。
だが、その窓を飾る景色は美しかった。
茶色や褐色、赤茶色、家々の屋根が、まるでレンガのように層をなしている。雨風で汚れを落とされたからか、とても色鮮やかだ。
港が見える。
嵐を避ける為に帆をたたんだ船が幾隻も、身を寄せるように集まっている。
そのすぐ向こうが海だ。
さっきまで荒れ狂っていた海は、灰色でまだ機嫌が悪そうな表情で、白く波を泡立たせている。
風が強い。
空には、まだ灰色の不安があちこちに残っていた。
時折、ぴゅうと強い風が頬を打つ。ひんやりして気持ちが良い。
風が吹く度に、雨戸がギィギィと悲しそうに鳴いた。


サンジの背後で気配が動き、
「悪かねぇだろ」
すぐ後ろに移動してきた。
「高台にあるから風も強いが」
「てめぇが選んだにしちゃ上出来じゃねぇの」
背後がとても温かい。
「いい眺めだ」
素直に言葉になった。
窓から外を眺めるサンジの肩にゾロが顔を乗せた。
「とっとと来りゃよかったのに…」
額を後ろ肩に擦りつけて、不満を口にする。
「アホか。それとこれは話が違う。てめぇがいつまでも帰ってこねぇからやむなく来たんだ。みんな待ってんだぞ」
「ボケ。あの家でこんなことが出来るかってんだ」
「…やること前提で考えんじゃねぇって…」
サンジの小さな溜息が風に流される。カーテンをばさばさ揺らして、硝子がビリビリ震えた。
海からの風はひんやり冷たい、でも背中はぽかぽか温かくて、この温度差はなかなかだ。もう少しこのままでいいと考えてしまうほど心地良かった。
後ろ首から耳元へと息が移動して、囁きに似た声が耳をくすぐった。
「…最初、嫌な奴だと思った。すごく目障りでしょうがなかった。はっきりいって嫌いだったしな」
一呼吸おいて、また言葉が続く。
「なのに一緒にされちまって、嫌でも一緒にいなきゃなんねぇ。存在そのものが邪魔だった」
ぐりぐりと頭を擦り付ける様は、大きな猫みたいだ。そしてかなり珍しいことに、大きく可愛げのない猫がべらべらしゃべっている。別に無口というわけではないが、だからといって話好きではない。
ゾロの声が続く。
「そんな奴が図々しく俺の夢にまで出てきたり、マスかいてっときまでヘンなツラで俺のことをさんざ煽りやがって。それだけじゃねぇが、いろいろもう目に付いて邪魔で、しかも煩せぇ。無視していても目に入ってくる。黄色だから目立ってしゃァねぇ。これでもいろいろ考えたんだ。だから、もしやそういうことなんかって、認めたくなくても気づいちまった。気の所為だと良かったのに…」
「…待て。それは俺のことか?」
げんなりした声だ。ものすごく嫌なことを聞いたといわんばかりの口調で、サンジが背後を睨む。実際のところ、そういう行為があった後でも、できれば耳に入れたくない類の内容である。
「やめろ。勝手に俺をズリネタにするな。想像でもやめろ。マジできもい。きもすぎる」
そんな苦情も、
「俺の意思に関係なく、勝手に出てくるんだぞ?俺に文句いうな。その前にてめぇであのツラをどうにかしろ。きもいとかいうなボケ眉毛」
ゾロなりに抗議しているつもりなのか、頭をゴツゴツと目の前の後頭部に叩き付けた。
「俺のツラが…、って、やっぱなんでもねぇ。つうか痛てぇぞクソが」
「やらしいツラだ」
ゾロが余計な返事をする。
そして、また頭を置いた。まるでそこが所定の位置だというかのように、首の付け根に顔を埋める。見ようによっては、まるで甘えているようだ。
「そら俺じゃねぇ、だから聞いてねぇって」
「目が潤んでて、顔が赤くて口も涎で濡れてる」
「ますますもって俺じゃねぇ。つうか、俺が女なら完全にセクハラだ。男でもセクハラ。聞いてんのか?迷惑だからマジでやめろ。妄想を口にするな」
抗議しても通じない。
やめるどころか、何故かゾロは怒ったような口調で、ムキなって話し始めた。
「てめぇこそ聞けってんだバカめ。いつもの生意気なツラを真っ赤にして、ぼろぼろ泣きながら、俺にそこを、ちんこの付け根の裏をもっと突いてくれって強請るんだぞ?」
「……誰だそれ?ほんと、頼むから勘弁してくれ……」
いつしかゾロの声が完全に怒っている。
「だから黙ってろといってんだろ。話さなきゃ俺の苦労が伝わらねぇ。どこまで話したんだっけか?てめぇがいちいち話の腰を折るから…。面倒だからいろいろすっ飛ばすが、ようするに、俺のほうが恥ずかしくなるほど敏感だ。首や肩、乳首や脇腹や臍、内腿を噛むとビクビク震えて、喘ぎ声を必死で我慢して、腰をふって乳首をぴんと勃たせたまま尻だけで射精しちまう。歯を食いしばってずっと我慢して、最後になって俺に訴えやがる。射精が止まらないって、壊れる、壊れちまった、止めてくれって俺にしがみついて泣くなんざ、ひでぇ話だ。そんな姿を、たとえ頭の中とはいえ見せられてみろ。俺だけが悪いんじゃねぇってわかんだろ。なのにいつも暢気なツラで、ぐるぐる眉毛巻きやがって。てめぇになんか、俺の複雑な心境や苦悩がわかってたま…」
話がふと途切れた。
いつしかサンジの頭が下がっている。深く項垂れたまま、ゆらゆらふわふわと、金色の毛先が朝の光に揺れている。
「……気絶したふりすんなアホ」
そういって、苦味潰した顔を隠すように、またその肩に頭を擦り付けた。金髪の隙間から覗く耳が真っ赤だ。





まだ時折強く吹く風は、雲をどんどん吹き飛ばして空の色を変えていく。明るくなって、もうすっかり秋空である。
港から少し離れた沖に、変わった形の船が見えた。今まで見たことない形だった。
「おい。ヘンな船がある」
右肩にいるゾロに問いかけた。
「おい?」
でも返事がない。
「聞こえてんだろ?」
サンジはかるく舌打ちした。
「……ったく。べらべらべらべらと、聞いてもいねぇことを喋りまくって、こりゃ新手な嫌がらせかと思えば、今度は聞いてもだんまりか?マジで使えねぇ」
もしかするとまた眠ってしまったのかもしれない。規則正しい呼吸がスースーと肩にかかった。
ゾロはもともとよく寝る。浅い眠り方をする性質らしく、家でも暇さえあればいつも居眠りを繰り返している。気づけばそこらで寝ている姿は、ほぼ日常に近かった。
寝ているのか起きているのかわからない相手に、話しかけるのはちょっと間抜けだけど、独り言なら問題ないだろう。サンジは窓に寄りかかって遠く海をみつめた。
「俺のこと嫌ってたのは知ってた。つうか態度でまるわかりだ。わかるもクソもねぇ。ちなみに、俺も最初から大嫌いだった。そっちから嫌わなくても、俺もてめぇに負けないくらい嫌いだった」
わかりきった内容だ。もちろん返事はない。耳に届いているのかいないのか、それすらもわからないし、だがどうでもいいことだ。ひとりごとに返事されても困る。

「…感情ってのは、なんで漏れちまうんだろうな」
あからさまなものはともかく、隠されていたものでも気づいてしまうことがある。
それが自分に向けられたものなら尚更だ。そんなに鈍くはない。
どんなに口汚く罵り合って毎日喧嘩しても、ふとそれに気づいてしまうことがあるということを、ゾロは知っているだろうか。
気づいてからそういう気持ちになったのか、あるいは、相手を気にしていたからこそわかってしまったのか。
時折まだ強く吹く風に、サンジは目を細めた。
灰色だった海が、透明な青に変化していく。


肩にピリッと微かな痛みが走った。
昨夜噛まれた傷だ。
「大丈夫か?」
いつのまに起きたのか、自ら付けたところを丁寧に舌先で舐めながら問いかけた。
「たいした傷じゃねぇから」
「他も」
きっとそういう意味で聞いているんだろうと、サンジはなんともいえない気分になった。
「…男なんかいたわるなアホ。ガラにもねぇ。気色わりぃにも程がある。さっきといい、どんだけ俺に嫌がらせすれば気が済むんだ……」
ゾロの乾いた唇が傷をおおう。
腹に目線を落とすと、身体を抱くように背後から回された腕、そこに生渇きの傷があった。皮膚を破って、歯が食い込んだ生々しい跡だ。赤くなって肉が盛り上がり、ところどころ乾いた小さな血の塊がみえた。
傷口に触れるやわらかい舌先が、悪かったと、無言で謝っているような気がする。
サンジは肩に置かれた頭、ゾロの短い髪にふれた。ぽんぽんと軽く叩いて、掌全体で頭をおおうように撫でる。
「なんだ?」
「いや。別に」
2回目にされたことは予想以上に辛く、かなり耐え難いものだった。でも、射精そのものは今までの人生最大級だ。根こそぎ持っていかれたかと思うほどすごかった。気持ちいいなんて簡単な表現で片付くような、そんな生ぬるいもんじゃなかった。だけどそんな本音をいうものならば、自分は完全にマゾ認定で、これからこの男に何をされるかわからなくなる。そんなことをぼんやり考えながら、短い髪を弄んでいると、海から船の汽笛が聞こえてきた。


すっかり明るくなった街並み同様に、海も活気づいてきたようだ。ゾロがようやく顔を上げた。
「で、船がなんだって?」
「あれだ」
すっと腕を伸ばして、サンジは海を指した。
その指先に魚を模したような、変わった形の船が見えた。魚が大きな口をぱかんと開けている。
「ありゃレストランだって聞いたが」
ゾロは肩に顎をのせた。
「レストラン?あ、だから魚の形」
「たしか海上レストランだ。名前は忘れた。行ったことねぇけど、ここらじゃ何かと評判の店らしい」
「へぇ、美味いって?」
「味は知らん。だがかなりガラが悪いって噂だ。海軍だろうと海賊だろうと蹴り飛ばされる。あそこのコックは凶暴だってな」
「レストランなのにか?」
サンジが笑った。
「おい、試しにいってみるか?」
「わざわざ?てめぇが持ってきた海獣の肉があったろ。あれでいい」
「アホめ。朝飯食わねぇつもりか。ありゃ今夜の晩飯につかうんだ」
「晩?」
肩から顎を上げた。
「今夜も泊まっていくのか?」
「そのつもりだが?よもや迷惑とか?だが我慢しろ。船の切符は往復で買っちまったし、明後日までは嫌でも此処に居座るつもりだ。後でてめぇの好きなの作ってやるから。ウソップがスパイスくれたしな。あ、この前ナミさんに作ったやつがいいかな。いや、この前作った料理な、ナミさんがさ、『んもうサンジくんってば、美味しくて太っちゃう。どうしてくれるの?』って。いいか耳の穴をかっぽじってよーーーく聞きやがれ。俺は、ナミさんがたとえ百貫デブーな力士になったとしても、愛を貫ける自信があ…」
いきなり強く腕で締め付けられた。
「…え、何だ?」
筋肉で硬くなった両腕で、サンジの身体を背後からぎゅうぎゅう締め付ける。
「このやろ、久々にプロレスでもやろうってのか?チクショー、いきなり後ろから攻撃するのは卑怯だぞ!」
身を捩って解こうとしたけど、力が強くてなかなか思うように外れない。
「なんだってんだ、馬鹿力がっ!放せクソやろ!」
後ろからぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう羽交い絞めにされて、すっかり身動きがとれなくなってしまった。
ゾロの声がする。
「……来るのが遅いからだ」
責め立てる口調で、
「…ったく、あの家のにおいをぷんぷんさせやがって」
また頭を擦り付け、後ろからすごい力で抱きついてくる。サンジの身体から、抗う力がすっと抜けていった。
「いっとくが、里心とかじゃねぇぞ。誤解するな。ただ、てめぇがヘンなにおいさせてくっから。今頃、眉毛巻きながらのこのこ来やがって、余計なことばっか言いやがるからだ」
まるでサンジが悪いといわんばかりに、抱きついて頭をゴリゴリと擦り付けた。
「…なんつうか、懐かれてすごくきもい……」
「…だからきもい言うな。誤解もするな、だけど我慢しろ」
誤解もなにも、誰が見てもそりゃ立派なホームシックだろうと、いってやりたいが、いったところでそれを簡単に認める男じゃない。感傷など、たとえ気づいたとしても、絶対に違うと言い張るタイプだ。

――サンジくん。ゾロの首に紐付けて連れて帰ってきてくれる?全然顔も出さないなんて、別に会いたい訳じゃないけど、ずっと帰りを待っている私たちに失礼だわ。無理そうならば、これを煎じて飲ませてやってね。

そういって、来る前にナミからチョッパーの爪を渡された。そういう諺があるのは知っていたが、実際にヤレといわれたのは初めてで、たとえやったとしても嫌がらせ以上の効果があるとも思えない。
そんなことを思い出しながら、
「さっきもいったけど、たまには帰ってくりゃいいんじゃねぇの?ほんとに。みんな待ってんだしさ」
背後に語りかけた。
「駄目だ」
ゾロの返事に迷いはない。
「俺には目標がある。それを手にするまであそこには戻らないって決めた。半端な決意じゃ無理だ」
「え?じゃもう二度と家に戻れねぇじゃないか」
いきなり頭をサンジの後頭部に叩きつけた。ゴンゴンゴンゴン、小さな頭突きを繰り返して、ゾロが抗議する。
「ふざけんな。たかが後1〜2年だ。ちょっくら予定が狂ったりすると3〜4年。ほんっとに失礼だなてめぇは」
身体で文句をいう。
これでも甘えているつもりだろうか。昨夜のこともその延長線にあるのだろうか。サンジは考えた。結論は出なかったけど、気持ち悪いことに変わりはないし、珍しいこともあるものだと、好きにさせておいたらいつまでも後頭部を小突かれ、腹立ちは募るばかりだ。
軽く頭を叩いただけで、脳細胞が500個死ぬ。今日だけでおそらく10万個以上だ。ゾロの頭で殺されてしまった。
「…っ、この」
頭をググッと下げて、その反動を利用して身体を後ろに大きく反らした。
目の奥で、ぱちぱちとオレンジ色の火花が散った。
「…ぐっ」
後ろから辛そうな呻き声が聞こえ、
「……ざまみろ」
サンジの目からぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「100万個以上死んだろ、って、痛てぇ、痛すぎる…」





生成りのカーテンが大きく揺れた。
狭い部屋の中で、風が踊っている。カレンダーがばたばた音を立てて、舞うようにめくれていった。
「ぶはっ、風強ぇえ!」
サンジの額は全開だ。
「なァ、もいっかいシャワー浴びて、着替えて飯食いにいこうぜ。腹へった」
自分の肩に向かって話し掛けた。そこにはずっとゾロの頭が乗せられている。重くてしつこくて、だけどカイロのようにぽかぽか温かい頭は、自由気ままでこの上なく気まぐれだ。
「時間は作ればどうにかなんだろ?」
修行を続けるために、ゾロは用心棒まがいのことをして生計を立てている。ぼろいアパートメントに住んでいるけど報酬はさほど悪くなかった。海はきれいでも治安がいいとはいえない土地だ。海賊も多い。
「なァってば」
何度呼びかけてもその目は閉じたまま、額に深い皺を寄せている。見事なしかめっ面だ。
「で、部屋に帰ってきたら、とりあえずてめぇは手紙を書け」
返事がなくてもサンジは話し続けた。
「これこれこういう理由で、もしかすると一生家に戻れないかもしれません。ですが、自分は精一杯頑張って修行するであります。ってな。自分の始末くらいてめぇでしとけ」
また後ろから頭突きでもされるかと思ったけど、不思議となにも仕掛けてこなかった。
穏やかで静かな呼吸が聞こえてくるだけだ。
「こら。寝たふりすんな。ほんとは起きてるくせに」
右肩に置かれたままの頭を揺する。そして、その額を叩いた。ピシッと気持ちのいい音がして、ゾロがうるさそうにまた眉を顰めた。
「おら、飯食いにいくぞ」



空が青い。
雲も埃も、いつしか風が全部吹き飛ばしてしまって、どこまでも鮮やかな青は、宇宙との境目が見えそうなほど透きとおっている。
屋根は赤や茶色、褐色や焦げ茶色に薄茶色、その形もいろいろで、尖った屋根に平らな屋根、三角屋根に四角い屋根など、地上を彩るデコボコ模様だ。
青い海が見える。
雨戸が壊れたアパートメントの窓の向こう、連なる屋根の間を縫って、空と海をくっきりと分ける水平線が、ゆるく大きな弧を描く。
一枚の絵画が飾られているかのような、美しい窓だった。





END


2009/11.09