森のなかの小さな海








食っちゃえ、食っちゃえ

お腹を減らした狼がいった



山をも切り裂く腕は、お前を飢えさせることはない

あの脚さえあれば、どんな獲物でも自分のものとなる

血は熱く滾り、全身を駆け巡り、

そう、奴の心臓を食えば、何者にも立ち向かえる強靭な心が宿るであろう。

訳知り顔でみみずくが語った。








「いや。土に還してやろう思う」
そういったのは金色の狐だ。
「土に?」
「あの強い腕も、牙も、心臓も、すべて?」
狼が馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らし、山猫が嘲り笑った。
「狐、アンタはあの虎を自分のものにしたいんだろう?」
「九尾の狐よ。お前が望むものをお前にやろう。何がいい?心臓か?お前が満たしてやった胃の腑か?それとも、お前を喜ばせたあの生殖器が望みか?」
山猫が甲高い声で笑い、カラスが可笑しそうに身を揺すって、真っ黒な毛を膨らませた。

「九尾の狐。お前があの虎のメスだったのは皆が知っている。だが、死んだからにはそうはいかない。誰もがアレの持つ強さを望んでる。あの怪物の」
独り占めはさせないと、ハゲタカが威嚇するように大きく羽を広げたその時、狐が長くふさふさした尾を一振りした。空気は切り裂かれ、周りの樹木が一瞬でなぎ倒された。

「……本当のことを言われて逆上したか、狐よ」
「お前はずるい」
「ずるい」
「俺にヤツの心臓をよこせ」
熊が唸る。
「俺には右腕を食わせろ」
「血を啜らせろ」





「もう、そこらへんにしておけ」
太く、鋭く、何者をも貫く大角をもった雄鹿が皆を制した。
「狐よ。お前の希望はその虎を土に還すことか?だが、我々の掟ではそれは許されまい」
狐は小さく首を横に振った。
「俺の希望じゃねぇ。約束だ」
「約束?」

馬鹿なヤツだ、カラスが高らかな声で嗤う。
約束だと?人間以上に愚かだ、山犬が嘲る。
九つに裂けた金色の尾が扇状に輝き、その強い意思を顕にするや、後ずさりながらも『卑怯者』と、山猫が毛を逆立てて威嚇した。
雄鹿が狐に声をかけた。
「力ずくというのなら、お前はもう此処にはいられなくなる。それでもいいのか?」
「もとより承知だ。奴ァ、土に埋める」





大切なものは土の中に
見つからないよう森に隠そう
深く大きな穴からは、何も成らない樹が生える
千年生きた青い硝子
開かない扉を眺めてる


空に向かってカラスが歌う。










真っ暗な新月の夜、狐は森の奥へと向かった。
誰にも見つからないように。
何者にも眠りを邪魔されないよう、静かな場所を。
金色の毛が灯りにならないようにと、身体に泥を塗った。
お喋りみみずくは追い払う。
暗く、静かな夜に、ひとりで弔いの穴を掘る。










菜の花が一面に咲いていたと、彼は子供の頃に聞いたことがある。珠のような露が草花を濡らし、うっすらと白い靄が地面を覆っていた、そんな朝だったと。
むせ返るような花の匂い、そして黄色い海。
生まれた子狐はサンジと名づけられ、仔を産み落とした母狐はそのまま息を引き取った。

百年間をずっと子供のままで過ごし、金色のふさふさした尾を持つ子狐は、先代の九尾が眠りにつくや尾が二つに裂けた。あまりの激痛に身を捩り、そしてサンジは大人になった。人間に化ける術を習得したのもこの時だ。
二百年したら三つに裂けて、生まれてからずっと住んでいた森を離れたのは、生まれて三百年後のことだった。
生まれ持った強靭な脚で軽やかに山を越え、飛ぶように川を渡った。森や沼や湖、様々なところで揉め事は起こった。通り過ぎただけでも縄張りを荒らされたとその土地の動物たちと闘い、そうこうするうちに、サンジはいつしかある小さな森にたどり着いた。
そこで化け物のような虎に初めて出会い、ふたりは闘った。百年間にわたる戦いでお互いに負った傷は深く、血が乾かぬうちにまた鮮血が迸り、そんな月日と闘いの中、ふたりの間で生じたものを言葉で表現するのは難しいのかもしれない。
虎の名前はゾロという。


そして共に山を越え、川を渡り、いくつもの森を通り抜けていつしかサンジの生まれ故郷に辿り着き、そこでふたりは巣穴を構えた。
それから十万の昼と夜を、彼らはともに過ごした。
ざらっとした舌で金色の毛を梳き、そして生殖器を舐めて穴を穿ち、震える尾に歯を立てる。サンジの喉からは喜びに満ちた甲高い呻きが洩れ、爪と牙で虎の肩、腕、そして首に、背中にといくつもの傷痕を残した。
滲み出る血を舐めて、サンジがゾロに問う。
「俺がメスだったらとか、てめぇは考えたことあるか?自分の子孫を残したいと思うのは動物の本能だろ?」
「いや」
ゾロはそれを否定した。
「お前がメスじゃなくて良かったと思ってる」
「何で?」
「お前なら孕まない。俺は何も、何ひとつ残したくねぇ」
虎の生殖器が背後から狐を深く貫くと、低い呻き声をもらし、
「お前は俺がメスじゃなくて残念か?」
「…いや。残念も何も、てめぇがメスだったらと思うだけで気色悪ぃ。こんなに堅くて獰猛なレディはこの世にゃいねぇぞ」
笑う狐に虎が甘噛みし、そうやって幾つもの長い夜を語り、ふたりは身体を重ねた。





類まれなる強靭な身体と精神をもつ虎は、その過ぎたる力ゆえ故郷をもたなかった。
三百年の歳月をひとりで生きてきた。
食うために生き物を殺し、生きるために食べない動物を殺す。その牙は他の動物の毛皮を食いちぎり、鋭い爪先は肉と骨をも切り裂いた。
『怪物』と呼ばれ、恐れられ、皆から忌み嫌われて生きてきた。
老いることも死ぬことも忘れた虎は、百五十年生きて人間の姿になる術を覚えた。





「ずいぶん昔に聞いた話だが、この世界の何処かに奇跡の海と呼ばれる場所があるらしい。そこは七色に輝き、全ての魚がそこに集まってきて、そりゃあもうきれいで、奇跡というより天国のような場所だそうだ」
生まれ故郷の岩陰で、身を寄せ合って、サンジが語る。
「海は大きく2つに割れ、雲からは滝のように水が流れ落ち、魚は悠々と空を泳ぎ、鳥も動物も人間も、全部同じ空間で暮らすことができるんだと。おい、こんな話は退屈か、ゾロ」
「いいや」
「でな、その海に行っちまった奴は、もうそこから出て行きたくなくなるんだそうだ。辛いことも悲しいことも、その海がぜんぶ吸い取ってくれる、そんな奇跡の海があるんだってさ。どう思う?」
「インチキ臭せぇ。誰もそこから帰ってこねぇなら、その話が伝わるわけねぇだろ」
「真偽はともかく、話してくれたヤツがこういってた。本当に辛いことは忘れていいんだ、と。それがあるだけで生きていくのが辛くなるから」
ゾロはゴロンと寝返り打って、サンジに顔を寄せた。
「誰に教えてもらった?」
「ジジイ。先代の九尾」
「永いこと生きるのは、確かに辛い。ひとりなら尚更だ」、そういって、微かに眼を細める。
「いつか俺と一緒に行く気はねぇか?その海に」
しばし沈黙の後、ゾロがサンジに訊ねた。
「おめぇの爺さんは何故死んだ?九尾だったんだろ?」
「原因は知らねぇ、ある日眠るように死んだ。最後に、『俺は仕事が終わった』って言ってた。仕事ってなんだと思う?」
「さあ?」
「生きていくのがジジイの仕事だったんじゃねぇかと思ってる」





四百年の歳月をゾロと共に過ごし、サンジは生まれてから九百年が経った。
そして今、ひとりで海に向っている。





途中の森で、サンジは年老いた梟に出会った。
「『奇跡の海』へ行くのか?」
梟が問う。
「あると思うか?」
「さあ?わしは千二百年生きているが、経験していないものを語る言葉を知らない」
「あんたは千二百年生きている。それでも知らないことはあるのか?」
「知らないことを知るのがわしの仕事だ。それにはまず、何を知らないか理解しなければならない」
「知ってどうなる?」
「知りたいと思う間は生きていられる」
「今以上に永く生きたいのか?」
「永く生きたい訳じゃない。ただ知りたいだけだ。前にこういう話を聞いたことがある。人間のある種族は数を持たない。1から10まであれば数としては充分だかららしい。1,2,3と数えて、10から先は『いっぱい』だ」
梟がほうほうと笑う。
「千二百年も十一年も同じってか?」
サンジも笑った。
「カラスは利口なふりして数えられるのは6までだ。6から先は『いっぱい』、もしくはどうでもいい」
「アンタはそんだけ物事を知っていても、まだいっぱいじゃねぇんだな」
「まったくだ。同じだが同じじゃなくて、いっぱいだがいっぱいじゃない。近頃ようやくわかったことがある。わしは知らないことが多すぎる」
ほうほうほうほう、また梟が笑う。





しばらくして大きな川の前にたどり着いた。
向こう岸が見えないくらい、おそろしく広大な川だ。一服しようと、その川原の大きな岩に腰を下ろしたところ、その岩が突然動き出した。

「そんなに驚くことはなかろう。九尾よ」
岩がサンジに話しかける。
「あ、アンタの背中だったのか?勝手に座ったりして悪ぃことしたな」
それは緑色に苔生した大きな海亀だった。
「気にすることはない。もうずっと此処にこうしていて、今じゃ自分が岩か亀かなんてことはどうでもよいことだ。それよりも、お前はここで何をしている?」
『奇跡の海』のこと、その道を探しているとサンジは話した。
「どうしてそれを望む?」
海亀が問う。
「ずっと一緒にいた奴が死んだ。いつか一緒にと漠然と考えていたが、俺一人になっちまったから、どうせ暇だから見てみようかと思ってさ」
「そいつは何で死んだ?」
「とても強かった。どんな獣にも負けないくらい強靭な身体と心を持っていたが、小さな鼠に噛まれてあっけなく死んじまった。2日間高熱にうなされ、3日目の朝には冷たくなっていた」
「亡骸はどうした?皆で食ったのか?」
「いや、土に埋めた。皆に食わせてやっても良かったんだが、何だかその気になれなかった。そんなつまんねぇ意地を張ったばかりに、森を出ていくはめになっちまったが」
そこに約束はなく、最後まで虎は何も語らず、何も望まずに狐の腕の中で死んでいった。狐に残されたのは、熱を失うにつれ少しずつ重くなっていった、冷たい抜け殻だけだった。
海亀が大きな身体を揺すった。
「何が可笑しい?」
「お前は九尾であることに感謝したらいい」
「何故だ?」
「そいつが死んだのは鼠の毒だ。稀に大きな象をも簡単に死に至らしめる、猛毒をもつ鼠がいると聞いたことがある。もしも他の連中がその肉を食ったならば、今頃そこは死の土地になっていたはずだ。土ならばいつかはその毒も消え去る。お前が汚染されなかったのはその九尾の力のおかげだ。お前の行為は誰にも評価されることはないし、感謝されることもないが、お前はその身体に流れる血に感謝したらよかろう」
「…九尾の力にか」
「それとも、そいつと一緒に死ぬのが望みだったか?」
「いや。それは考えたことがねぇ。だが、感謝するつもりもねぇぞ」
「そうか。それは余計なことをいった」
「それよりも、このでけぇ川を渡るにはどうしたらいい?」
「船で漕ぎ出せ。この海の向こうにお前の望むものがある。その人間に化ける力には感謝したらどうだ?船は人間の乗り物だぞ?」
海亀が苔生した甲羅を震わせ、また笑った。





小さな船で海を進むうちに、サンジは 1頭の大きな鯨に出会った。

「『奇跡の海』を探している。あんたは知ってるか?」
「白い海と灰色の海、氷の海と死んだ海、金色に輝く海を過ぎると漆黒の海に出る。その先にお前の探してるものがあるはずだ」
「白い海はどう渡ったらいい?」
「船で」
「氷の海は?」
「お前の船で」
「黒い海はどうする?」
「その小さな船を信じたらよかろう」
「着くまでにどれくらいかかるんだ?」
「幾千の夜と、数万の朝には」
「幾千と幾万?昼と夜で数があわねぇぞ」
サンジが笑うと、鯨は盛大な潮を吹いた。
「知らないものを知らないと言うは容易い」
「おい、お前の話にいくつ真実がある?」
「いくら真実でも、それを伝えるのは難しいことがある」
鯨がまた潮を吹く。





金色に輝く海で、サンジは海原を旅する鳥たちに出会った。

「あんたらは『奇跡の海』を越えたことがあるか?」
渡り鳥が答えた。
「俺たちに渡れない海はない」
「この羽は氷の海を渡れる」
「光がない漆黒の海も」
「死んだ海も」

「真っ暗な海をどうやって渡る?」

「見ようとしなければ」
「お前の毛が光になろう」
「輝く金色の毛が邪魔になろう」

「最後にもうひとつだけ。『奇跡の海』は本当にあるのか?」

「願うならば」
「お前がそれを望めば」
「お前に捨てる勇気があれば」





















「帰ってきた」
「狐が帰ってきた」
「またこの森に」


千年生きた硝子球
開かない扉を眺めてた


カラスが歌い、空を飛びまわった。









「何故戻ってきた、九尾よ」
雄鹿が尋ねた。
「俺の仕事も終わりに近づいているらしい。我儘は承知だ。もう一度だけこの森に受け入れてもらいたい」
「仕事とはなんだ?」
狐が笑う。
「海を見た」
きれいな輝く海だったと、小さく笑った。
「森の連中が騒いでるぞ。お前の個体としての生命力が弱っていると」
「そういう時期なんだろうさ」
「お前は光り輝く尾をもつ九尾ではないか。何故、それを望まない?」
「俺の望みはひとつだけ。少しばかり眠りたい。邪魔してもかまわねぇが、ほっといてもらえると助かる。願いを聞き届けてもらえるか?」



元の巣穴へ戻ろうとする狐に、雄鹿が背後から声をかけた。

「そこまで弱ってても、まだ人間の姿をやめるつもりはないのか?自分でも分かっているんだろう?その姿に奴等は反発している。この森のやつらは少しばかり気は荒いが、根は悪い連中じゃない。お前はまさか本当に人間にでもなったつもりなのか?寿命は短く、 百年と生きられない、あの弱い人間に」



そのまま立ち去ろうとする狐に、今度は山猫が声をかける。

「お前のその岩をも砕く強靭な脚、臓物も血も金色に輝く尾も、すべて貰うぞ。いいのか?」
「好きなようにすればいい」
「馬鹿なやつだ。お前があの虎とつるんで人間の姿などせねば、ここまで弱ることもなかっただろうに」



巣穴に戻る途中、狼が狐に声をかけた。

「今ならお前を食い殺せる。だが、俺が何故それをしないか、お前は知ってるか?」
「さあ?」
「千年も生きて、そんなことも気づかずにお前は終わろうとしているのか、九尾よ」










狐が眠る。
身をくるりと丸め、十の冬を。


ある夏の夜に、森のみみずくが眠る狐に話しかけた。

「お前が外で何を見てきたか語ってくれまいか?」
狐が微かに目を開けた。
「…奇跡の海、を…」
「あれは本当にあったのか?だが、ならばどうしてお前は戻ってきた?そこにいって戻って来た者はいないと聞くが」
「捨てられないものがあった」
「捨てられないもの?それは大切なものなのか?」
「おそらくな…」
「どんなものか訊いてもよいか?」
「…どうでもいいことだ。…クソジジイのこととか、すっげぇ遠くまで旅したこと、闘いに明け暮れたことや、この森のこと…、いろいろ…、つまらねぇことばっかだが、捨てられなかったんだから、そんなんでも俺には大切なのかもしんねぇ…」
みみずくが一呼吸置いて、夜にふさわしい低い声で呟いた。
「…眠りの邪魔をして悪かったな、九尾よ。今宵は美しい月だ。ゆっくりと休むがいい」





ある冬の、初めて粉雪が舞った日、真っ黒な熊が狐の巣穴を訪ねてきた。

「俺はよく覚えている。俺がまだ生まれて間もない子供だった頃、お前の黄金色の毛はまるでお日様のようにきらきらと輝いていた。それなのに今じゃどうだ?くすんで、ぱさぱさじゃないか?お前が死んだらその毛をもらおうと、俺はずっと思っていた。この黒い毛皮を剥いで、金色の毛を身に纏おうと考えてたんだ。それなのに…」
狐が微かに笑った。
「…そうか、そいつぁ、悪かったな」
「悪いなんてもんじゃねぇぞ!」
熊が赤黒く憤慨した面持ちで怒鳴るや、狐はすっかり細くなった腕を、すうっと熊へと差し出した。
すると熊は何故か立ち上がり、まるでおじぎをするような姿勢で、立ったまま狐に話しかけた。
「九尾。教えてくれ。俺は何故かわからんが悲しい。自分のものだと思っていた黄金の毛がくすんでしまったからだろうか?お前の強靭な腕や手がすっかり細くなってしまったからだろうか?」
それは大きな身体に似合わぬほど、小さく蚊の啼くような声だった。





狐は眠る。
ひとり巣穴の中で、十の秋を。


つやつやとした大きな木の実をくわえて、大鷲が巣穴に姿を見せた。

「お前が此処を出て行ってから百年経った。見ろ、奴の土からこんな実が成りやがった」
「…埋めた場所を知ってたのか?ならば、何で掘り起こして食わなかった?」
「土中にあるものを食うのはミミズかモグラだろう。他に食うものがないわけじゃなし、何故に掘り起こしてまで食わねばならんのだ」
さも当然といった表情だ。思わず笑いを浮かべた狐に、
「どんな愚かな行為でも意味はある。俺のこの行動も愚かなのかもしれないが、それでも意味はあるのだろう」
大鷲はその実を狐の口元へと落とした。





















「九尾よ、もう春になった。外は一面の菜の花だ。わしは昔々に父親から聞いたことがある。お前が生まれた日も、こんな季節だったと。九尾のゼフに跡継ぎが出来たと、森中が大騒ぎだったそうだ。九尾よ、聞こえてるか?また春になったぞ」





雄鹿が返事のない狐に語りかける。





「お前も土に還りたいか?」





「九尾、もう聞こえないのか?」






「お前は何を夢みてる?」



















END