HOTEL RUINS 8  
―――プロローグがないのにエピローグ








北国の春は遅い。
もう3月になったというのに、まだ街に雪を残している。ましては野山など、まだまだ冬だ。それでも、ほんの少しだけ暖かくなった春の太陽が、降り積もった雪を樹の枝から落とす。
どさりと、ゾロの背後で白いかたまりが落ちてきた。
足元もひどくぬかるんでいるが、もちろんゾロはそんなことなど気にしない。
朝一番で宿を出た。街を出るまでにおよそ1時間。小さな森を抜け、細い獣道を延々と歩いて約半日、それはあった。
北の海は青に灰色が混じっている。透明度は高いが太陽が足りないのか、とても深みのある青だ。
そんな海に面した崖っぷちにぽつんと一軒建っていた。岩肌の間から枯れた草が生え、荒涼とした風景が広がっている。
尖った屋根は雪避けだろうか。黒いシルエット、その建物は築何百年経つのかわからないが、遠目にも立派な廃屋だった。

HOTEL RUINS

真鍮でできた看板が掛けられてある。
だが、そんな看板があったとしても、どう贔屓目でもやはり幽霊屋敷だ。
朽ち果てた建物の向こうに広がる空。曇り空に透きとおるような青がところどころ顔を覗かせていた。明日は晴れるかもしれない。








ギギギギギ。チャイム代わりに扉が鳴った。
そう広くないホールの左側、その一角に男が座っている。小さなカウンターのような場所で新聞を広げて、口に煙草を咥えていた。
「いらっしゃいませー。クソお客様ァ」
幾分投げやりな口調だ。しかも新聞から目をはなそうともしない。
返事がないのを不思議に思ってか、ようやくその顔を上げた。


「なんだ、客かと思って愛想振りまいて損したぜ」
「愛想の欠片も落ちてねぇから損はしてないはずだ」
ゾロはカウンター前に腰掛け、ゆっくり部屋を見渡した。
「随分と立派な幽霊屋敷じゃねぇか。悪趣味というか、つうか、これで客くんのか?」
黒い木でつくられた壁はところどころ剥がれ落ちている。全体的に黒く薄暗い部屋ながらも、いくつかある飾り窓から弱々しい北の太陽が顔を覗かせていた。

「失敬なこと抜かすな。たまにくんだ、物好きが。しかもわざわざ遠くからくる酔狂な奴もいる」
ゾロは天井を見上げた。
吹き抜けの高い天井はあちこち蜘蛛の巣だらけ。黒い階段は板が剥がれ落ちていて、しかも気味の悪い絵が掛けられてある。誰の肖像画か知らないが、夜中にいきなり笑いだしそうだ。どう見ても幽霊ホテル、此処は人間よりも霊界の住人にこそ相応しい。
サンジがお茶の用意をした。
「おめぇの趣味か、これは」
「こんな悪趣味じゃねぇ。廃墟も限りがあるし、そうそう選べる立場になくてよ。実は最初の頃、ここにヘンなの棲んでたんだ。ナミさんやウソップが怖がっちまって、どうするかと考えている間にルフィが追っ払っちまった」
「へぇ」、ゾロが興味深そうな顔をした。
「追っ払うというより、奴にすりゃただからかうつもりだったんだろうさ」
「ルフィってのは、あの鼻じゃない方だな。強いのか」
「それなりにな」
ゾロの前に紅茶が出された。
「で、俺の好みをいわせてもらえば。明るい太陽が燦々と降り注ぐ明るい部屋で、もちろん窓はでかくてさ。白いカーテンが掛かってて、その窓からきれいな青い海が見えてな。そこに美しいレディでもいりゃ最高なんだが、べつに仲間でもかまわねぇ。ナミさんがいる。すっげ可愛いだろ彼女。言っておくが、ヘンな気を起こすんじゃねぇぞ」
サンジの話が続く。
「きれいな海といえば、前に噂で聞いたんだが、グランドラインにゃオールブルーってすげぇ海があんだと。全ての海がそこにあるって伝説の海でさ」
ゾロが耳をほじった。
「てめぇから訊きやがったくせに…」
「いや。ただ耳が痒かっただけだ。好きなだけしゃべってかまわん」
サンジがテーブルで片肘付いて、また新聞を広げた。
「いいや、やめとく。調子にのってうっかり話しちまった。てめぇなんざに話して大切なモンが減ったら困る」
「減るかバカ。いいから話せ」
「減るんだボケ。それに強姦野郎からバカ呼ばわりされるいわれはねぇ」
「ありゃ和姦だ。バカめ」
「和姦?」、サンジが新聞から顔を上げた。
「最初こそ嫌がってたが、それなりに」
ゾロの話を遮った。
「それなりになんだってんだ?いっとくが俺は不感症じゃねぇ。あんなことされりゃ感じて当たり前、というか」
手にした新聞がビリッと音を立てて破れたかとおもうと、それをテーブルに激しく叩きつけた。
「ふざけんなーーーっ!どのツラ下げてそんなこと抜かしやがんだ!あんなことをしておきながら、よくも抜け抜けと俺の前に顔を出せたなっ!」
「どのツラと言われりゃこんなツラだ!気が済むまで見やがれってんだ!いっとくが俺も被害者だぞ!誰が好き好んで野郎なんかとするかっ!」
「さんざっぱらしておいてから、勝手なこと抜かしてんじぇねぇよっ!お前さ、ずっと思ってたことなんだが、もしかすると後半は薬抜けてたんじゃね?」
ゾロがまた天井を見上げた。
「こら、無視してんじゃねぇ。ホントは薬が抜けたんだろ。最初は勢いだけだったくせに、途中から妙にしつこくなりやがって」
「おい」
「誰がホモじゃねぇって?このクソホモが」
「蜘蛛の巣張ってんぞ」
「誤魔化してんじゃねぇぞ。このヤロー」
「あ、すげぇ」
「返事しろバカ」
「でっけえ蜘蛛がいる」
サンジがギョッとなった。顔からみるみる血の気が引いていく。真っ青になって、恐る恐るゾロの指差す方向を見上げた。黒い天井の片隅、大きな蜘蛛の巣だ。引き攣った顔でしばらくそれを凝視していたかと思うと、
「…あ、なんだ、よく見りゃただのデッカイ枯れ葉じゃねぇか。確かに似てるが、お前脅かすんじゃねぇよ…」、ホッとしたようにへへへと笑った。
これを可愛いと思ってはまずかろう。ゾロは思わず目を逸らし、小さく咳払いをした。

サンジの表情がころりと変わった。
「ケッ」、忌々しげに吐き出すと、胸元からタバコを取り出した。
「1年も前のこととやかく言ってもはじまらねぇ」
そして正面からゾロを見た。
「仲間になりにきたと思っていいんだな」
かすかに頷くと、一呼吸おいてから口を開いた。
「わざわざ招待状をもらっちまったからな。いいか、もう二度と酒にヘンなもんは入れるな。そして俺には鍛錬と休息の時間が必要だ。いずれお前らと一緒にグランドラインへ入り、俺は大剣豪を目指す。ならば、あのホラ吹きどもに付き合ってもかまわん」

サンジが小さく首を傾げた。
「…はい?お前何様?もうお客様じゃねぇよな?なんでそう上からものを言う?」
「俺がすべてにおいて、お前より上だからだ」
サンジがゆらりと立ち上がった。







「来たな」
「来たわね」
「偶然じゃねぇよな?」
ホール階段下の暗がりから、3つの顔が覗いた。
「1年も経つのに、なんで今頃きやがったんだろ」、ウソップが首をひねった。
「どっかで迷子になってたりして」、そういいつつ「まさかそんな間抜けじゃねぇよな」、ルフィが笑う。
「…ビックリだわ。わざわざ追いかけてきたの?」首を小さく傾げ、「そんなに良かったのかしら、サンジくん……。あの時も妙な色気があると思ってたけど…」、意外そうな顔をしたナミを見て、またウソップの鼻がしおしおに萎えた。
「…あのな、思うのはかまわん。それは自由だ。だが口に出すのはやめろ」

「俺の勝ちだ。ナミ、一億ベリーな」
ルフィが無邪気に笑った。
「ううん。言ってないもん。私は賭けするなんて、ひとことも言ってない。だから賭けは不成立よ」
「きたねぇ!きたねぇぞナミ!」
「いつ私がそんなこと言った?何時何分何曜日?答えられるもんなら答えてみなさいよ。絶対、ひとっことも言ってないもんねー」
「ずるいっ!」
「ずるくないっ!」
「男らしくねぇ!」
「私のどこが男にみえるのよっ!」
「卑怯だぞっ!」
喚くルフィの口をナミが引っ張る。何故かその口がゴムのようにびよんと伸びた。
「んもう、あんたがうるさいから話が全然聞こえないじゃないっ!」
「いやいや。おめぇらが喚いてるから聞こえねぇだけだ」







サンジは上げかけた腰をおろすと、ゾロを正面から見た。どうしたわけか、さっきとはうってかわって驚くほど穏やかな表情だ。
随分ところころ表情が変わる男だ。そんなことを考えながら、ゾロはカップに残っていた紅茶を飲み干した。
「今頃きやがったのはなんでだ?」
「俺にもいろいろ事情がある」
「ちなみに訊くが、どんな事情だ」
「そりゃいろいろだ」
「いろいろはわかった。ひとつでいいから言ってみろ」
「いろいろありすぎて絞り込めん」
「わかった。ありすぎる事情があるのもわかった。じゃ、その中からひとつでもいいから思いだしてみろ」
「ありすぎて面倒でしゃあねぇ。そんなの聞いてどうするつもりだ?もうどうでもいいだろうが」
「そうか。じゃあ、ゆっくりでかまわねぇ」
「面倒だっていってんだろ。話聞いてんのか」
「大丈夫だ。時間ならあるから」
「お前らに仲間になれって誘われたから来ただけだ。俺の事情になんの意味がある?」
「きっと意味はあるぞ。それに仲間なら知っておきたいと考えても不思議じゃねぇ」
「……」
「じっくり思い出したらいい。なんなら手伝おうか?」
「……」
ゾロが口を閉ざした。
蛇のようにしつこい男だ。いっそ喧嘩腰で言われるなら楽なものを、穏やかな顔でどこまでも食い下がってくる。
黙ったままのゾロに、サンジが静かに問いかけた。
「あそこを出た後、次に移動した場所へお前は行ったのか?」
ゾロが頷くと、それは何月だと訊いた。8月と返事をすると、その次の場所も行ったのかと尚も問いかけた。

コツコツ音がする。サンジがカウンターテーブルを指先で叩く。
月日をひとつひとつ確認するように、軽く指で叩きながらゾロに語りかけた。 
「お前が泊まったホテルは去年の3月で閉鎖した。次の場所、あそこを俺達が出たのはたしか7月だ。いたのは4ヶ月くらいだった。だがお前はきたんだな。その次の営業はふた月くらい。で、お前が来たのはまた俺らが引き払った後。そのまた後もな。要するに、ちゃんと追いかけてきたったわけだ。看板の位置に暗号を残しておいたのによく気づいたな。そしてそれを解読できるくれぇの知能は持っている、だが1年かかった。となると」
そしてニヤリと笑った。
「お前、ずっと迷子になってたんか?いやさ、最初ん時も右っていってんのに左に曲がったり、夜中いきなり隠し部屋にやってきたり、ただ人の話聞いてねぇバカかと思ったけど。お前さ、もしかすると相当な方向オンチ?おい、街から此処までどれくらいかかったよ?普通は1時間くれぇだが、まさか2時間も3時間もかかったんじゃあるまいな」
よもやそこまでバカじゃないだろうと、最後に腹を抱え、カウンターをバンバン叩いてゲラゲラ笑った。楽しそうに笑う男を前に、ゾロはあからさまなほどムスッとした表情だ。こめかみもピクピク痙攣している。街から此処まで半日かかったなど、どうして言えよう。
「誰の話をしてる?つまらん冗談だ」
「確かに。冗談にしてはつまらん。だが事実なら話は別だ。へっ、一年も迷子になるなんざ、どんな方向オンチなんだ?なんだそのツラは。ムッとした顔してんじゃねぇよ。てめぇのこと心配してやってんだろ。迷子札でも作ってやるかァ?」
ケッケッケーと笑う男に、ゾロがスッと刀を抜いた。







「これで5人だ」
ルフィがニッと笑った。
その眼差しは力強く、揺るぎない光がある。
「ここ1年でだいぶ戻りつつあるし、きっともうすぐ海に出られる」
嬉しさのあまりか、ぴゅんとすごい勢いで宙に飛んで、いつもよりくるくると回っていると、階段下の出っ張りにおもいきり頭をぶつけた。
「イーーーッ、イデッデッデッ!」
「バカ。身体が戻ってきてるっていったのは自分でしょ。気を抜くからそういうことになるよ」
近頃、ルフィはいろいろなものにぶつかっている。
いつもの調子で壁を抜けようとして壁に激突したり、またはすり抜けてる途中で壁に埋まってしまったり、この建物内部の破損は3割方ルフィの所為だ。たしかに身体は徐々に戻りつつあるが、まだ半生程度だ。なのにいつも生傷が絶えない状態だった。
「俺が船長でナミが航海士。ウソップは狙撃手な。サンジがコックで、奴はどうする?」
3人が喧嘩しているふたりを見た。
「3本も刀を持ってるから剣士でいいんじゃねぇか?」、ウソップがそういうと、ナミが大きなたんこぶをこしらえたルフィを見て溜息ついた。
「剣士もいいけど、出来れば医者が必要だわ…」
「よし。後は音楽家と肉汁な」
彼が太陽のように笑う。
「…まずは船を手に入れねぇと。肉汁はいい加減諦めた方が身の為だと思うぞ…」、ウソップの心配など吹き飛んでしまいそうなほど、その表情は明るい。







「…クソが。無駄な体力使わせやがって」
勝負は互角だ。ぜいぜいと肩で荒い息をして、サンジは元の場所に腰掛けた。
3月はまだ気温が低い。ましてや北国だ。だが暴れた所為か汗が滲み出てきた。
サンジがチラリとゾロを見た。同じように息は荒い。が、自分より幾分余裕があるように感じるのは気のせいか。カーキ色した丈の長いパーカージャケット、下に着ている薄手の白いシャツが無駄のない筋肉を覆っている。
そして意識的に視界から男を消すと、自分の胸元を緩めた。酸素が足りないような気がする。息苦しい。ネクタイを緩め、乱暴に外し大きく息を吐いて、シャツのボタンを3つ外した。
「…チッ」、ゾロが舌打ちした。何故かサンジから目をそむけ、額を手で覆うようにぎゅっと押さえ、辛そうな様子で目を閉じた。眉間に寄った皺は、そのまま彼の苦悩をあらわしているようだ。
「何だ、また腹でも痛てぇのか」
「いや、ちっとばかり頭痛が…」
「頭痛?大丈夫かよ?」
「…いや、頭痛というか、悩みといったらいいのか…」
「悩み?」
「うるせぇな。ほっとけ」
「けっ、誰がかまうか。偉そうに。悩みなんかあって当たり前だ…」
ふたりの口から深い溜息が漏れた。

扉からガタリと物音がした。
ギギギと軋んだ音がする。僅かに開かれた玄関の黒い扉、その隙間から何かがこっちを覗いていた。

「たぬき?」
「たぬきか?」
ゾロとサンジの声が重なった。







「たぬきだ!」
「え、違うんじゃない?たぬきに見えるけど帽子をかぶってるわ。しかもピンク色。ねぇ、たぬきって帽子かぶるのかしら?」
「なんで鼻が青いんだ?それにパンツまではいてやがる。あの角は帽子の飾り?つうか、あれってほんとにたぬきか?」、ウソップが首を傾げた。
「しかも二本足で立ってるし、何あれ?」

「あ?」
「あ!」
「あああああ、たぬきがしゃべった!」
3人の口が驚きで大きく開かれ、
「すげぇ…面白れぇ…、すげぇぞたぬき!」
ルフィの目が、きらきら星よりもきれいに輝いた。







たぬきがかなりビクビクしているのは確かだ。顔を出したり引っ込めたり、隠れているつもりなのか、顔だけ隠して身体が出ていたりする。
「………あ……あの、俺」
おどおどした声は消え入りそうなほど小さい。


「おい。たぬきがしゃべってるぞ」
「なんだ、バケモンかよ」
サンジは一度外したネクタイをまた締め直した。手馴れた指でタイをきゅっと締め、そして内緒話でもするようゾロにそっと顔を寄せた。
「ここに入り込んでくるとは、随分と運の悪いたぬきだぜ。そうだな、てめぇの運が良けりゃ今晩はたぬき汁にしてやってもいい。クソ旨めぇ飯を食わせてやる」
その口元がかすかに緩んだ。
ピンク色の帽子に青い鼻。獣なのに二本足で立ち、しかも人語を話す。頭隠して尻が出ている。そんなたぬきを見て、ルフィの目はさぞや輝いているに違いない。目の前にまざまざと浮かぶようだ。珍しもの好きな彼が喜んでいるのは想像に容易い。
「そしてたぬきの運がとことん悪けりゃ、奴は俺たちの仲間になんだろうさ」
「食われるより最悪ってわけか。俺も運に見放されたらしい」、ゾロが苦笑いするや、サンジがクククッとその耳元で笑った。
「だが退屈しねぇ。かなり酷ぇ目にもあわされるがな」
そして扉に向かって声をかけた。
「お客さん。さあ中へどうぞ」






「HOTEL RUINSへようこそ」















END


2008/11.2