ふたり の はなし。
「お前はなんでここにいる?」
布団の上に広がる金色の髪。
自分の下で、とろとろまどろむ男に声をかけた。
「……ん?」眠そうにゆっくりと開かれた眼。白い腕を伸ばして俺の首に手を回し、そしてそのまま引き寄せられた。
「…なんで………?」
首元に顔を埋めるように、そして両腕で下から俺を抱く。
近頃こういうことがある。
抱いているのに、まるで俺が抱かれているようだ。
短い髪を梳くように頭部を、愛撫のように手が肩から背中にまわされ、戯れに耳のピアスを弾かれる。
ちりんと、小さな金属音に満足気な顔で、
「お前、俺の飯が好きだろ?」
「最初ん頃はまずかったぞ」
「それでも、てめぇは全部食ったよな」
薄く笑う。
誰もいないのに、誰にも聞かれたくないかのように、それは内緒話みたいに小さな声だった。
「料理は好きだ。ジジイのようにコックになりたいわけじゃねえけど」
「教師になりたかったんだろ?」
「此処で教師に、それが夢といえば夢か…。ジジイが帰っても、イヌがいなくなっても、たとえお前が出て行ったとしてもここを離れるつもりはない。こんな田舎町でも俺は好きだ…」
「俺は此処に執着はねぇな」
俺は早く大人になりたかった。大人になって自由になりたくて、自由になって何処にでも行ければ、こんなところはすぐに出て行くつもりだった。
場所に執着はないが、この男に対してそれはある。この感情を上手く説明できないが、名前をつけるなら一番近いのは執着だ。
静かな夜だ。声を潜めて言葉を交わすうちに、雨が降り出したのに気づいた。大粒の雨音が聞こえる。
「なんで、お前は俺の前にいる?」
指に金色の髪を絡ませて問うた。会話を途切れさせたくなかったからだ。
「逆だ。てめぇが俺の前にいる。お前がイヌになったとき、イヌになってもいいと言ったときのことを覚えてるか?」
俺の唇を舐める、薄く湿った舌がこそばゆい。
「捨て犬みてえなツラしてた。そのくせ、どっかギラついてて…」
軽く舌を絡ませた。
ぽつぽつと、大粒の雨が屋根を叩く。
古い家屋がそれを部屋に響かせて、布団の中で身を寄せ合った。
冬の終わりに降る雨は冷たい。だが春を呼ぶ。雨がもうすぐ春だと教えてくれる。
「何か、話せよ…」
俺の呼びかけに閉じかけた眼が開いた。
「……てめぇのねえちゃん、俺は覚えてんぜ。同い年なんかここらじゃ、くいなちゃんしかいなかったしな。もっとも、昔から此処は子供が少ねぇけどよ」
「俺は全然、覚えてねぇ」
「おふくろさん似の真っ黒な髪で、凛とした背筋の真っ直ぐな可愛い子だった。てめぇとは似ても似つかないくらい可愛い」
でも少しだけお前に似ているところもあると、長い指が耳をくすぐる。それがあまりにくすぐったくて、その指を自分の口に含んだ。
「こんな話は嫌か?」
「…いいや。何でもいいからもっと話せ」
囁くようなヤツの声が心地よい。こんな雨の夜にとても良く似合う、落ち着いた低い声だ。
「きっと美人になってたよな。黒い眼で真っ直ぐに見られると、どきどきするくらい彼女は可愛かった。出て行った時は悲しかったぜ…。でも、てめぇが残ったしな…」
「ガキがいねぇもんな、この辺は」
「ああ、お前でも時間つぶしにはなった」
意地悪そうな顔の、その指を噛む。
「そういや、おふくろさんとは連絡取れたんか?」
「いや」
でも、と俺は言葉を続けた。
「親父が、前に俺にいったことがある。自分より先に死ぬなってな。それだけでも俺は親孝行じゃねえのか?」
「ボケ。それくらいで図々しいにも程があんだろ?くいなちゃんだって、好きでそうなったんじゃねえよ」
「なんつうか…、上手く言えねえが、会いたいとか会いたくないとか、許すとか許さないとかじゃなくて……。元気でいればいいと思う」
幸せに暮らしているなら、悲しみが少しでも薄れていれば、それならいいと。俺はかあちゃんより長生きしなければならない。
たんたんたんたん。
古い雨どいから、こぼれた雨がリズムをとる。
もっと話せ、とヤツの喉に唇をあてた。声が発せられる度にびりびり震える感触が楽しい。
「俺よ、赤ん坊んときジジイと一緒に此処に来たんだよな。だから、此処しか知らねぇ。親父の顔も、おふくろの顔も知らねえからジジイが全てだったけど、てめぇんちは好きだった。羨ましいとは思わなかったけど…、つうか、それを思っちゃジジイが可哀想だろ?」
「爺さんは元気か?」
「元気なんじゃねえの?なんも連絡ねぇから」
「連絡ぐれぇ取ってやりゃいいじゃねえか。住んでるところは知ってんだから。あの爺さんでも喜んでくれんだろうが?」
返事をしないで、俺の肩に顔をすり寄せた。まるで猫のような仕草だ。
「……てめぇはなんでイヌになった?」
それには答えずに、ヤツの顎を舐めた。薄っすら生えた髭が頬にくすぐったい。
こそばゆいのは俺なのに何故かヤツがくすくす笑う。笑いながら、
「てめぇはガキん時から癇癪持ちだったぜ?気に入らねぇとすぐに噛むし、野良猫のように凶暴で。チビのくせに」
チビのくせに、チビのくせに生意気で、チビだからずっと上ばかり見てて、チビだったから周りなんか見てる余裕なかったんだろ。デカクなりやがって、ずっとチビでいればよかったのに。呟きながら、また俺を抱き寄せた。
「チビのまんまだったら、お前が抱けない」
笑う。
ヤツが声なく笑う。
まるで猫のように場所に執着する男と、俺。
「イヌのくせして」
生意気だと笑う男と。
俺と。
ここは、『わん』と、言うべきかどうか。
俺は迷って、その首を軽く噛んだがヤツの反応が少しばかり鈍い。
「…眠いのか?」
小さく頷いた男を腕の中に入れて、そのまま黙って雨音を聞いていたらスースー寝息が聞こえた。
たまにだが、こんなことがある。
寝ろといわれればいつまでも寝ていられるくらい、言われなくても眠れるくらいによく寝てばかりいる俺だが不思議と眠れない夜がある。
そんな夜をひとりで過ごすよりは、一緒にいた方がいいだろう。ヤツはどうやら眠いのを我慢して付き合ってくれていたようだ。
軽い寝息と、雨の音。
たんたん、たたんたん。
俺もゆっくりと眼を閉じた。
たんたんたん。
たん、たたん。
リズムが不規則になってきた。
どうやら雨足が少し弱まったらしい。
たんたん。
た、たん。
たん。
もうすぐ春がやってくる。
END
※番外編をもちまして「いぬ」終了です。こう書きたいというイメージだけはあったのですが、見事に玉砕しました。書きたいものと書けるものは違うと、何よりも元々その技量がないのだと思い知らされました。
そんな拙いものではありますが、最後までお付き合い下さったあなたに心より感謝を申し上げます。
2007/1.29